日 本 刀 の 歴 史 back top next
室町時代(1394年〜1595年)
 前期
  この時代は、後亀山天皇の京都還幸により南北両朝の争いも終わりを告げ、足利義満をはじ
 めとしてその一族が金閣寺、銀閣寺の庭園泉石の美を恣にするにつれ、前代の実用的な作風は
 全く失われ、再び平和な時代の優しい王朝時代の姿に近づいていきました。しかし技術の低下
 ははっきりしており、品位においても時代の下るにつれ、ますます低下しました。
  特に注意したいことは、この時代以前の作刀を太刀と呼び、刃を下にして紐で吊り下げて腰
 に佩いたものですが、この時代からは刀とよび、武士は刃の方を上にして大小二本の刀を腰に
 差すようになりました。このため50cm前後の本造り脇差がはじめて製作され、後世の脇差
 の濫觴となったのです。
  このことは刀剣鑑定上ひじょうに重要な見所で、たとえば、脇差に三条宗近とか相州五郎正
 宗の銘があれば、それは脇差を見なくても偽物と断定できます。なぜなれば、宗近や正宗は室
 町時代以前の作者であり、まだ脇差の無かった太刀時代の刀匠だからです。つまり寸法だけで
 真偽が判断できるのです。
 後期
  応仁の乱によって戦国の火蓋が切られ、群雄は各地に割拠し、刀剣の需要は急激に増加して
 古刀期最後の全盛を見るに至りました。しかしこの膨大な需要を満たすために、いわゆる数打
 物と称する粗製濫造品が出現しました。たとえば備前国祐定一門の数打物などは、毎日駄馬で
 昼夜の別なく全国に向け発送されたといわれます。我々が平常見る古刀の十中八九はこの時代
 の作品です。
  ただこの時代の作品全部が数打物というわけではないから、数打物か否かを見極めることも
 重要なことです。これは刀のでき栄えによって一見して断定することができます。たとえば、
 豪壮な姿に丁子乱を焼く特色のある刀匠が、貧弱な姿に直刃を焼いてあるような場合です。ま
 た反対に、銘に俗名や製作年月、彫物等を切り、その丁寧さを示した作品は数打物ではない証
 拠です。
  この時代は備前国長船が西国の軍需工業地帯であり、美濃国の関が東国の刀剣の供給地でし
 た。特に関は織田、徳川、浅倉、今川、武田、北条等の豪族の需要を一手に引き受けたため、
 急激に関鍛冶の繁栄を見ました。そして兼某とよぶ数百名の刀匠が出現しています。
  この時代は馬上戦より集団的な徒歩戦が有利となった関係で、特に槍の製作が盛んで、また
 個人対個人の組み打ちも盛んに行われ、この際敵の首を突き刺すのに便利な20cm以下の小
 振りな反りの無い重ねの厚い鎧通し、諸刃造の短刀が数多く造られています。当時の作品は時
 代の要求に合致した実用刀で、名刀と称すべき作品はありません。たとえば福岡一文字のよう
 なものは時価一千万円を下らないが、当代の名工とよばれる関の孫六、備前勝光の傑作でさえ
 弐百万円を超えにくいことによっても、戦国時代の作品の価値がうかがわれます。室町時代の
 代表的な刀匠は次のとおりです。
 山城国
   信国系・・・・・・・・・信国、信貞
   平安城系・・・・・・・・長吉
   三条系・・・・・・・・・吉則
 大和国
   手掻系・・・・・・・・・包吉、包友
   尻掛系・・・・・・・・・則長
 伊勢国
   村正系・・・・・・・・・村正、正重、藤正
 相模国
   相州系・・・・・・・・・広正、正広、綱広、康春
 美濃国
   兼定系・・・・・・・・・兼吉、兼元、兼定
   直江志津系・・・・・・・兼久、兼信、兼常
 備前国
   長船系・・・・・・・・・盛光、康光、勝光、宗光、忠光、清光、祐定
   吉井系・・・・・・・・・吉則、清則、盛次
   その他・・・・・・・・・家助、経家、祐光、則光、法光
 備後国
   三原系・・・・・・・・・後代正家、正広、正近
   法華系・・・・・・・・・一乗実行、兼行
 西 国
   筑前国・金剛兵衛系・・・盛次、盛秀
   肥後国・同田貫系・・・・正国
   豊前国・信国系・・・・・定光、吉助、吉次
   豊後国・高田系・・・・・家守、長盛、貞行
   薩摩国・波平系・・・・・吉行、吉宗、清助

 

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