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化物も怖れた大伝多光世


     戦国時代から江戸初期にかけて、各地の大名が召抱えていた御伽衆は、今日の軍隊でいえば参謀に

    あたるものである。参謀には作戦・情報・後方などの三役があったように、御伽衆にも、千軍万馬の

    間を往来した老武者がいて、作戦に関与した。他国の情勢に通じた軍学者が、敵方の情報を提供した。

    かつて領内の政治に関与した経験のある者が食糧の徴発や労力の徴集など、後方からの補給について

    智恵を出し合っていた。

     武田信玄と上杉謙信との5回、12年にわたる川中島の戦いも、地元の伝承によれば、信玄はいつ

    も稲の実るころ出兵、たわわの稲を刈り取って、甲斐に運んでいたという。信玄の幕下には、小笠原

    慶安斎以下、12名も御伽衆がいた。そのなかに農政に詳しい御伽衆がいたに違いない。

     豊臣秀吉は幕下に、30数名の御伽衆を擁していた。なかには伊勢津城主。富田知信『天正記』の

    著者・大村由己のような学者もいた。何か特殊な場合には御伽衆ではなくても、御伽衆にまじって城

    中に宿直(とのい)することがあった。

     京都の伏見城に、豊臣秀吉がいた頃のことだから、文禄4年(1599)ごろであろう。何か重要

    会議?あるいは関白秀次の処分問題だったかも知れない。前田利家・加藤清正・黒田長政ら錚々たる

    大名が秀吉のもとで夜伽をしていた。毎夜のことで、話の種も尽きたころ、誰かがへんなことを思い

    出して言った。

    「千畳敷の間の廊下を、深夜一人で通っていると、必ず大小の鞘の小尻を、何者かがつかまえて、引

    き止めるので通れない。勇気を出して前に進もうとするが、どうしても通れない。あきらめて引き返

    すと、何事もない。奇怪なことではござらぬか」

     長老の利家はこの話をはじめから聞いていたのであろう。事もなげに言ってのけた。

    「それは合点のいかぬ事じゃのう。かねがねそんな事もあるものと思っている故、心、臆しての事で

    ござろう。そんなおかしな事、ある訳ござらぬわ」

     利家が、臆病に吹かれているからのように、歯牙にもかけぬ言い方をしたのに、神経を逆撫でされ

    たとみえ、ある者が突っかかってきた。

    「それなら、前田殿が行って見なされ!」

    売り言葉に買い言葉よろしく、利家も負けてはいなかった。

    「よーし。行かいでか、でも、ただ行って来た、とだけでは何も証拠がない。何かしるしを置いて参

    ろうか」

     加藤清正は自分より24歳も年上の利家が、いきり立っているのを見て、年寄りの冷水かと思った

    が、茶目っ気を出して、腰の軍扇をぬき出し、利家に差し出した。

    「これを証拠に置いておかれては、いかがでござりましょう?」

     利家はまた、お借り申す、と堅苦しい会釈をして、軍扇を受け取った。

     一同が睡い眼をこすりこすり、化物の出る真夜中を待っているうちに、秀吉の耳にも、利家の化物

    試しのことが入ったとみえ、利家に、お召しの声がかかった。利家が秀吉の寝所をたずねて行くと、

    秀吉は笑いながら、

    「又左、まだ若いのう。行くなら、これを持って行きな」

     又左とは利家の若いときの通称である。利家は秀吉より1歳上だったが、駆出者のころから、又左

    藤吉と呼びすてにする仲間だった。その莫逆の友の、老いてなお衰えぬ壮心に、贐するつもりで、名

    刀大伝多光世、刃長約65.8cm(2尺1寸7分)を与えた。

     その名刀の霊力か、利家の胆力か、化物はそれに恐れをなしたのか、その夜は何の異変も起らなか

    った。利家は軍扇を廊下に残して、平然として帰ってきた。一同は、さすがに前田侯と、一同その豪

    胆さに敬服した。利家は老人の冷水よろしく、肝試しをやってのけたため、大伝多という希代の名刀

    をわが物にすることができた。

     その後、利家の三女で、阿野大納言実顕に嫁いだ加賀殿が、腫れの病にかかった時、それを治すた

    めの枕刀として、阿野家に貸してやった。しかし、その効もなく逝去したので、前田家に返した。と

    いう説がある。しかし、加賀殿というのは、利家の三女・麻阿のことで、12歳のころから側室とい

    うより、人質として秀吉の側に召し出されていた人である。秀吉の死後、万里小路充房に輿入れ、慶

    長10年(1605)10月13日、34歳で亡くなっている。この人は多病で、腫れの病というか

    ら腎臓病だったのであろう、それを治すまじないとして、大伝多を枕刀として貸してやった。しかし

    その効もなく女盛りに亡くなったので、大伝多は前田家に返されたという。

     これに対して、前田家の資料では、前田利家の四女で、備前中納言こと宇喜多秀家に嫁いでいた、

    備前君こと豪の病気が、なかなか快方に向かわないので、豊臣秀吉が、

    「それは困ったのう。お呪いとして、この大伝多を枕もとにおいたら、いいかも知れぬぞ」

     そういって貸してくれた。有難うござる。と拝借して枕辺においたところ、秀吉の予言どおり忽ち

    平癒した。喜んだ利家はさっそく御礼言上に登城して、大伝多を返却した。ところが、またしても再

    発したので、再度拝借を願い出たところ、気前のいい秀吉である。

    「それはいかぬのう。持って行っていいぞ。もう返すに及ばぬわ」

     そういう経緯で、前田家蔵となったが、皮肉なことにその後、再発はなかったので、大伝多の出る

    番はなかった。そして、備前君は61歳の天寿を全うしたという。しかし、この説についての前田家

    の資料は、本阿弥光山の説の受け売りであるから、前の加賀殿説と真偽いずれとも決しかねる。

     さらにもう一つ異説がある。大伝多は徳川家康の秘蔵刀で、二代将軍秀忠がゆずり受けていた。秀

    忠が養女にしていた、前田家三代利常の長女・鶴亀が、あるとき病気にかかった。前田家の御殿医が

    いろいろ療法を試みたが、なかなか平癒しない。それで邪気によるものだろう、と言う事になったの

    であろう。

    「邪気払いのため、例の大伝多を拝借仕り度うござります」

     利常が願い出ると、秀忠は名目上とはいえ、養女になっている鶴亀である。こころよく貸してくれ

    た。それを病床の枕もとに置いたところ、日ならずして快癒した。厚く礼をのべて、秀忠に返してい

    たところ、またもや再発した。拝借してくると、またけろりとよくなった。大伝多を将軍にお返しし

    ていると、またもや再発、これには秀忠もあきれ巣てて、

    「返すに及ばぬ。そのほうの家に止めおくがよかろう」

     と言わざるを得なかった、という説もある。しかし、秀忠時代のこととしては、時代が下がりすぎ

    る。やはり、前述の加賀殿説あたりが、真実のように思える。

    ところが、十人十色とはよく言ったもの、病気封じは大伝多ではなく、前田家で大伝多と並んで至宝

    とされている。三条小鍛冶宗近の薙刀であろう。という異論もある。それは「光山押形」の著者とさ

    れている、本阿弥光山の説くところである。それは女の治病には、薙刀がふさわしいし、なお、前田

    家伝来の小鍛冶宗近の薙刀の鞘を、押し戴くだけで、本阿弥家の連中の病気が治った。という話があ

    る。それを思い出して、薙刀説をとったのであろう。

     さて、名刀大伝多光世は、室町将軍重代三剣の一として、足利将軍義輝まで伝来していたが、秀吉

    が天下統一の大業をなしとげると、本刀・ニツ銘・鬼丸の三剣は、そろって秀吉が召し上げた。その

    うち光世が前田家蔵となった経緯は前述のとおりである。

     前田家では、これを"大伝太"と書くが、『刀剣名物帳』では大伝多、文化庁では大典太と書く。伝

    太は光世の通称で、古剣書では伝多・転多・典太・典多・田多などとも書く。名は元真または本真で、

    光世は法名という。すると、コウセまたはコウセイと読むべきであるが、昔からミツヨと呼んでいる。

     居住地は筑後の三池と伝承されていて、その屋敷跡として、御井郡国分村(久留米市国分町)に、

    "焼刃の池"があるほか、国分町の山王社の南、300mほどの所に、鍛冶ヶ園・三池・名人という小

    字がある。名人(ねいり)は銘を入れた所という意味である。

     ここから三毛(池)郡に移ったという。その遺跡は三池郡高泉にあって、伝太屋敷と呼ばれていた。

    昔はここに古井戸があり、家を建てると祟りがあると言われていた。ここは大牟田市大字久野木22

    7番地で、現在はS氏宅となっているが、別に祟りなどないようである。

     光世の初代は、平安後期の承保(1074)ごろ、つまり八幡太郎義家の時代であるが、それとて

    刀の銘に、年紀があったわけではない。後世の愛刀家などが、推測して決めた年代である。なお、そ

    の時代、筑後国は平穏で、刀剣の需要も少なかったはずである。それから80年後、肥前前司・薦野

    小大夫資綱の兵乱を始まりとして、やがて源平合戦の世となっている。刀剣の需要も急激に増えたは

    ずである。光世もその時代の申し児だったのかも知れない。その後、室町時代に至るまで、伝太や光

    世を名乗る刀工が、筑後には数名、散発的に出現している。それらと区別するため、前田家では、大

    伝太と「大」の字を冠して呼んでいる。前田家にはもう一振り短い光世があって、それを小転多と呼

    ぶのに対して、これを大伝太と呼んだのではないか、という憶測もあるが、前田家にそんな小転多は

    なかったから、それは考えすぎである。

     前田家では大伝太の収蔵されている宝庫を、"烏止まらずの蔵"と呼んでいた。大伝太の霊力をおそ

    れて、屋上に烏も止まらない、というのである。前田家がいかにこの大伝太を、霊剣視していたかを

    示す、証左の一つである。

     前田家では寛文9年(1669)同家から禄を支給している本阿弥光甫に命じて、鬼丸拵えといっ

    て、柄も鞘も革で包んだ、名物の"鬼丸国綱"と同じ外装をつけることになった。名物の鬼丸では、鎺

    の裏や目貫に桐紋があるが、それを同家の梅鉢の紋にかえた。

     前田家7代宗辰は、藩主の座にあることわずか1年5ケ月、22歳の若さで病死した。期せずして

    18歳で藩主の座が、転げ込んできた重煕は、好奇心の旺盛な年頃、さっそく大伝太と小鍛冶宗近の

    薙刀を、金沢から江戸へ持って来させた。到着すると早く見たくて、早速持って参れ、と命じた。す

    ると、江戸家老で、四千石取りの西尾隼人が、それを遮った。

    「殿は服喪中でござる。忌明けにならねば拝見できぬ掟になっておりまする」

     幕府の元禄(1688)中の「服忌令」によると、重煕は宗辰の養子であるが、家督を相続してい

    るから、嫡子と同じで、忌は20日、服は90日となっている。当時前田家では、天和3年(168

    3)以来の服忌についての布達を集めて『服忌穿鑿』を編集中だった。それで西尾隼人は服忌のこと

    を、やかましく言ったのであろう。

    「然らば、大伝太・宗近薙刀の由来を、詳しく書いて出すよう」

     重煕は折れて出た。そして出来上がったのが、『大伝太太刀小鍛冶薙刀記』である。

     十代治脩は、大伝太の斬れ味を試した記録がない。どのくらい斬れるのか、それを試すよう命じた。

    寛政4年(1792)8月19日、江戸千住の小塚原において、幕府の試し役を仰せつかっている浪

    人、山田浅右衛門吉睦が、大伝太を振りかぶって、土壇のうえの死体に対した。エィツの掛声もろと

    も振りおろすと、一回目は一ノ胴つまり鳩尾の所を、二回目は車先つまり臍の下、骨盤の所を一刀両

    断して、下の土壇に約15cmほど切り込んだ。

     三回目は左右の腋の下を結んだ線、つまり左右の肩胛骨をかけて斬りさげると、同じく土壇までき

    りこんだ。四回目は三ツ胴つまり死体を三つ重ねておいて斬るが、上と中の死体はふりつけ摺り付け

    つまり鳩尾の所を、下の死体は一ノ胴のすこし上を狙って斬ったところ、上下の2死体を一刀両断し

    たあと、最下の死体の背骨のところで止まる、という凄い斬れ味を示した。斬り手の山田吉睦は、山

    田家では中興の名人と謳われた名人だったが、刀が大業物でなければ、これほどの斬れ味は示せない。

    治脩も試してみてよかったと、大いに喜んだことであろう。

     文化9年(1812)3月、本阿弥重郎左衛門が江戸藩邸によばれ、大伝太のお手入れをしている。

    安政3年(1856)になると、刀の研ぎが古くなったので、本阿弥喜三次に研ぎなおさせている。

    刀箱は外箱が春慶塗り、内箱が桐の白木と、二重になっていた。ふだんは休め鞘として、白鞘に入れ

    白絹で包んであった。名高い伝説の刀だけに、喜三次も一代の大仕事として、精魂こめて研いだこと

    であろう。

     本刀は昭和32年2月、前田育徳会名義で国宝に認定された。

日本刀おもしろ話より


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