大蛇が化けて刀鍛冶

南北朝のころ、越後(新潟県)は新田義貞の勢力下にあった。それを奪取しようとする足利方との間の雄叫びは、姫川の瀬音を消してすさまじかった。戦国時代になると、糸魚川を起点として、東に延びて信州(長野県)松本に達する街道があった。これは信州人の生命を左右する塩の輸送路でもあったが、逆に武田信玄の軍が侵入してくる道にもなる。それを恐れた上杉謙信は、糸魚川に不動山城・根知城をおいたほどである。 そうした戦略上の要衝だった。当然戦闘要員、つまり武人が多かったので、それに刀剣類を供給する鍛冶職の存在が必要だった。 その人たちが鞴(ふいご)をすえていた所を、誰ということなく鍛冶屋村と呼んでいた。それが今も糸魚川の北部、海岸寄りにある。昔は北陸道の宿場町として栄えていた。 その頃、といっても、室町時代のことであるが、ここに一軒の刀鍛冶屋があった。もう相当の年齢なので、早く後継者が欲しかった。 幸いに一人の娘がいた。それが今ならば、ミス越後になること請け合い、眼もとぱっちり、おちょぼ口、眼のさめるような美人だった。 家は刀鍛冶、おきまりの貧乏暮らしだったが、その娘ならば、という青年は多かった。 「うちの婿は、一晩に刀1000本打ちあげる男でなければならん」 父親がそう高望みするので、村の青年も指くわえて眺めているほかなかった。ところが、ある秋の夕暮れのこと、紫色の夕靄に包まれてひとりの若い武士が、鍛冶屋を訪れた。 「え、あなたが一晩に、1000振り打ち上げなさる? それはそれは、まぁ、どうぞこちらへ」 父親はすっかり喜んだ。見れば筋骨はたくましいが、顔は色白く、鼻筋とおって、おのずからなる気品よさ。娘はぼーっとなって、お茶くむのさえ忘れている。 「明朝一番鶏が鳴くまでに、きっと1000本打ち上げます。決してそれまで、鍛冶小屋をのぞきなさらぬように・・・・」 そう堅く念をおして、鍛冶場へ姿を消した。間もなく鞴ふく音がきこえ、続いて槌の響きが、親子の枕をゆるがして、聞こえてきた。 しばらくして思い出したのは、決して小屋をのぞいてくれるな、という若侍の一言だった。何故だろう? 疑念と好奇心が、糸をたくるように、父親を小屋に引き寄せた。 抜き足、さし足で行って、小屋の壁のすきまからのぞいてみて、驚いた。若侍は身の毛もよだつ、恐ろしい大蛇になっていた。そして小さい蛇がその相槌になって、槌をふるっていた。 「なんで可愛い娘を、あんな大蛇の嫁にやれよう。夜明けまでに、きっと1000振り仕上げるだろう。ああ、どうしたらよかろう」 老鍛冶は頭をかかえて、気も狂わんばかりにもだえた。ふと思い出したのは、一番鶏の鳴くまでに、打ち上げるという約束だった。 「あっ、そうだ」 膝をたたいて、駈け出した。そして裏の鶏小屋にかけこんだ。雄鶏がとまっている竹の節に、鶏が騒がないようにこっそり、鑿で孔をあけてそのなかに湯を流し込んだ。雄鶏は足の裏が熱くなったので、もう夜があけたかと勘違いした。 「コケコッコー」 と、夜の空気をふるわして、声高に時をつくった。それを聞いて、びっくりしたのは大蛇だった。そのとき999本目を、打ちおわった時だった。もう1本だけという時に、一番鶏が鳴いてしまった。残念ながら約束の時間切れとなったので、太陽をおそれる大蛇は、壁の破れから、スーッとどこかへ姿を消してしまった。 ああ、よかった、と老鍛冶が小屋に駆け込んでみると、999本目の刀の中心に、「波平行安」と鏨の跡も鮮かに、銘が切ってあった。 「波平行安」の波平は、今の鹿児島市内の地名で、ここに居住の刀鍛冶を、波平派という。行安は波平派の嫡系の名乗りであって、鎌倉時代から連綿、幕末まで63代続いた名家である。 しかし、そのうちの何代目かが、糸魚川に移住したという事実はありません。その事実がないのに、糸魚川の民話に波平行安を持ってきているのは、糸魚川と波平の薩摩と、海上貿易が行われていた証拠でしょう。

日本刀名工伝より