近 藤 勇 の 虎 徹

年月日は判明しないが、文久2年(1862)の暮、幕府が浪士を徴募した直後か、そのすこし前のことである。 場所も弾左衛門が宿とあるだけで、判然としないが、江戸か、その近郊にちがいない。新撰組の隊員として、聞きなれた剣客が三十数名あつまって、賑やかに佩刀の試し斬りをやった。 座元はかの土方歳三だった。 その佩刀は、大刀が仙台住用恵国包、小刀が相州住綱広であった。 芹沢鴨の大刀は長巻直しで無銘、備後国三原住正家と鑑定されるもの、小刀は葵下坂康継(2代目)であった。 清川八郎の大刀は濃州住岩捲、小刀は大村加トであった。佐々木只三郎の大刀は備前長船住祐定 永正3年の作、小刀は濃州関住和泉守兼定であった。 伊庭八郎の大刀は江戸住大和守安定、小刀は関兼元であった。大和守安定の中心には万治2年、山野加右衛門が小塚原において三ツ胴裁断、つまり死体三人をかさねておいて斬った、という金象眼が入っていた。 すでに斬れ味は保証のものだから、当時の斬れ味はまことに素晴らしかった。いずれも感嘆の声をおしまなかった。 この安定の向こうをはる斬れ味をしめした刀が一振りあった。それはほかならぬ虎徹であった。幕府の講武所で剣道教授方をしていた松平主税助が秘蔵のものであった。 「虎徹の斬れ味って、凄いなぁ」 近藤勇はいつもの癖で、頭を小きざみにしきりに頷かせながら、感にたえないもののように嘆声をはなった。が、伊庭八郎にすれば、自分の安定をほめて貰いたかった。 「うーむ、が、おれの安定もすごうぜ」 「そりゃ、斬れるには斬れるさ、だが、刀の品位となると、やはり虎徹には及ばないからね」 そう答えると、近藤はそのまま両手をくんで、じーっと沈思の淵に沈んでいった。 その日、かれは三振りの刀をもってきた。差料の大刀は備前長船直光であった。刃長2尺2寸余、ふんばりが強く反りの高い刀であった。切先にちかく棟に切込みがあった。 かつて実戦の功をへた名残りであった。焼刃は直刃で、やや淋しい感じだった。 小刀は加州金沢住陀羅尼勝国の作で、刃長一尺八寸の脇差であった。焼刃は三本杉で、関の孫六そっくりであった。なお無銘であるが、備後の法華一乗と中心に金粉で書いてある、刃長2尺一寸ほどの刀ももってきていた。 これは外装が素晴らしかったので、差料にはもったいないといって、していなかった。 ふだんの差料にしていた長船直光は、何しろ室町初期の古刀なので、研ぎべりのため優しすぎて、かれにはもの足りなかった。 「まあ、虎徹が手に入るまでは、これに生命を託するよ」 近藤はそういって、にっこりしていた。もっともいくら虎徹に惚れたって、虎徹は新刀の横綱である。 郷士の枠のかれがおいそれと買えるものではなかった。宝クジにでも当たらなければ、一生かかっても買えるものではなかった。 が、人生は一種の宝クジである。誰が引き当てるか分からない。かれにもやがて引き当てるチャンスがおとずれた。 文久2年2月、幕府では勤王の志士を弾圧するため、関東の浪士250名ばかりを徴募した。翌3年(1863)の春になると、京都において志士の横行が激しくなった。 幕府では徴募の浪士を上洛せしめ、これが弾圧に当たらせることに決した。2月8日、鵜殿鳩翁を隊長として、江戸を出発することになった。 近藤勇も隊員の一人であった。 「京都に上ったら、きっと戦争になるに違いない。業物を用意して行かないと、万一の場合、おくれを取るかも知れぬ」 彼はこう思ったので、支度金で虎徹を買うことに決めた。さっそく刀屋を呼び出した。 「虎徹の刀を至急さがしてくれ。値段の高下は申さぬ」 値段お構いなしとは、商人にとっていいカモである。これで一儲けしよう、と血眼になって探したが、何しろ天下の形成は一触即発のころである。 刀剣の店先でアクビしているはずがない。どうも出発まで見つかりそうにない。 「こんなカモを逃がしては、商売冥利につきる。致しかたない。例の手で行こう」 例の手とは当時、湯島天神にいた鍛冶平こと、細田平次郎直光に偽銘を切らせることだった。値段お構いなしだから偽物の材料には、少々値がはるけれども、幕末のころ、四谷正宗といわれた山浦清麿の刀を選んだ。 鍛冶平はもともと庄司大慶直胤の門人だった。一かどの刀工だったが、刀を作るより偽銘を切るほうが名人であった。 特に虎徹については、『虎徹押形集』一巻を遣したほど、十二分に研究した男である刀屋から事情をあかされると、待っていましたとばかり、さっそく清麿の銘をすり消して、長曾祢虎徹興里と偽銘を切ってくれた。 見ると本物そっくりの銘である。 「これならバレる惧れはあるまい。五十両ぐらい吹っかけてやろう」 近藤から五十両の代金を受け取ると、 「こんなボロいことがあるから、刀屋は一生やめれねえ」 ぺろりと舌を出して、隊士の宿舎を出て行った。あとに残った近藤は偽物虎徹を撫でながら 「ああ間に合ってよかった。これで思う存分あばれられるわい」 と、人一倍大きな口を開いて、会心の笑みを洩らしていた。上洛してからわずか半月後に、生麦事件談判のため、英艦が横浜に入港した。幕府はそれを機会に、隊士の大部分を江戸に召還した。 あとには芹沢鴨、近藤勇以下、20数名が残留した。新撰組と名づけ、京都守護職松平肥後守容保の指揮下に入れられた。 その翌月、芹沢が何者かに暗殺されると、近藤が隊長となって、采配を振るった。それから隊士をしだいに増員し、もっぱら志士の取締まりに任じた。 翌年元治元年(1864)6月5日の夜、近藤らは、勤王の志士が三条の池田屋で密会していることを察知し、それを急襲した。 かれは偽物虎徹を抜きそばめ、沖田、永倉、藤堂および枠周平(17歳)の四名で斬りこんだ。他の隊士は出口の堅めていたのである。 これが有名な池田屋事件である。 そのときの情況を、養父の近藤周斎らに報告した手紙がある。その中につぎのような一説がある。 「兼て徒党の多勢を相手に、火花を散らして一時(いっとき・2時間)余の間、戦闘に及び候処、永倉新八の刀は折れ、沖田総司の帽子折れ、藤堂平助は刃切出さゝらの如く、枠周平は槍を斬り折られ、下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」 その時の戦闘がいかに激烈だったか刀の損傷によって分明である。かれの偽物虎徹も無事だったとはいえ「刃はぼろぼろにかけたが、鞘におさめるといつものようにスーッと入った」 後年かれが甲州に出陣する途中、佐藤俊宣氏にこう物語ったそうである。ところで池田屋事変の褒美として、松平守護職から近藤には三善長道の刀、隊員一同には金五百両を与えられた。 かれの得意、また想うべしだった。 が、京都の形勢はかれの一剣によって支えうるほど、軽微なものではなかった。かれは将軍家茂の上洛を促すため、池田屋事変があってから四ヵ月後に、隊士3名をしたがえて江戸にくだった。 その時のことであろうか、ある日のこと、かれは先年、偽物虎徹を売りつけた刀屋に、使いを走らせた。 「例の虎徹について、話したいことがある。早々来るように・・・・・・」 刀屋は蒼くなった。 「偽物の件がバレたに違いない。うかうか行ったら、これ刀屋、天誅を加える、などといってバッサリやられるかも知れない。といって行かなかったら、新撰組の暴れん坊だ、きっと押しかけてくる。ええ、ままよ、運を天に任して行ってみよう」 妻子と水盃までしたかどうか、とにかく、悲壮な決心をして、念仏唱えながら出掛けていった。 近藤の前へ出ると、へへっ、とタタミに頭を吸いつけられたように、へばり着いていた。 「これ刀屋、面をあげろ」 恐る恐る顔をあげて見ると、近藤はにこにこのエビス顔であった。人の顔色をよむには年期を入れた刀屋である。 「おや、話が違うらしい」 と直感すると、俄然、態度が豹変した。現金なものである。 「先年は大変ごヒイキに預かりまして、へへ」 さっそく揉手をしながら、商売のお礼をいった。 「やあ、当方からお礼申すぞ。さすがに虎徹の斬れ味は天下一品だ。これほどの名刀を、わずか五十両で世話してくれた志のほど、かたじけないぞ。本日はその謝礼の意味で、足労煩わした。ゆるゆる飲んでくれ」 近藤は衷心から嬉しかったらしく、親しく酌をしてやり、歓待これつとめた。刀屋もご馳走の手前、例の偽物虎徹を無茶苦茶にほめあげた。 帰りぎわには、ほめ賃であろうか、さらに金一封を手に握らせた。 帰ってから開いてみると五両入っていた。 「つかました上に、また五両も頂いていいの」 女房が心配して訊いたが、刀屋は空うそぶいていた。 「くれるものは仕方がねえ」 さて近藤は刀が好きだったようである。 壬生の屯所で、宿舎の主人と話をしているときは、たいてい刀か槍の話だったという。かれの手紙にも、刀剣について述べたものがある。 たとえば佐藤彦五郎あてのものをみると、脇差の長さや、荒木又右衛門の佩刀のことを述べている。 「土方氏(歳三)も無事罷在候。殊に刀は和泉守兼定ニ尺八寸、脇差は一尺九寸五分細川国広。 扨、脇差長き程、宜く御座候。下拙儀も当時脇差二尺三寸五分御座候。実地場に至り候ては、必定刀損じ申す可く候万一折れ申候節には、長さに限り申す可く候。 特に荒木又右衛門は桜井切掛候節、刀折れ、其節脇差ニ尺二寸五分有之候ゆへ、尤脇差働と存じ奉り候。 折れ申候刀は伊賀守金道、二尺八寸五分有之候。先頃荒木家にて一覧仕候。殊の外美事の品に御座候得共右の脇差の事に御座候間、必小は長きに限り申す可く候」 なお故郷の近親にあてた手紙には、柄木のことや、大坂刀工の作は用いてはならないなどと、やや専門的な意見を記している。 「大方剣者、上作を相撰度存じ奉り候。麁刀武用聊相立申さず候。其内幸便に相頼み剣類差下し候。御一覧有る可く候。柄はゆずの木、亦樫宜御座候。剣者大坂決而御用成られ間敷候」 近藤の刀剣知識は実戦の経験からえたもので、実用論の範囲をいでなかったようである。偽物の虎徹をつかまされて喜んでいたのだから、専門的鑑定眼がなかったことになる。 かれに刀を見る眼がなかったように、大勢をみる明もなかった。将軍慶喜が官軍に恭順の意を表しても、かれは徹底抗戦を絶叫した。そして甲州方面に出陣した。 これも腰間の偽物虎徹にたのむところ、多過ぎたためともいえよう。が、ひっきょう剣は一人の敵のみ、天下の大勢を支えるには足りない。 ついにかれは官軍の謀におちいり、縄をうたれた。明治元年4月25日、斬罪に処せられ首級は京都の参上河原にさらされた。時に三十五 こうして剣鬼、近藤勇は修羅場裡に生涯を終わったが、愛剣の偽物虎徹はどうなったか、その後、杳として消息不明である 「甲州に出陣するときは、板倉周防守様から拝領の宗貞でした。鞘には五三の桐ちらしの蒔絵があって、ずいぶん立派なものでした」 近藤の養子、勇五郎はこう語ったという。 すると。あれほど絶対の信頼をかけていた偽物虎徹を、置いて行ったことになるが、留守宅にも残っていないのは不審である。 この偽物虎徹物語は、かれにいっぱい喰わした刀屋から、今村長賀氏が聞いたものという。あるいは今村氏もいっぱい喰わされた組かも知れない この話は刀剣界のみならず、徳富蘇峯の『近世日本国民史』などにも紹介され、はなはだ有名であるが、真偽のほどは、実証する資料が何一つないので、保証の限りでない。 あるいは刀屋のデタラメかも知れない。それを裏書きするように、 「いや、あれは私が進呈したものだ」 という人もある。それは明治の末、東京高等師範学校の剣道師範をしていた斎藤五郎氏である。氏は近藤に剣道を学び、かつ新撰組の隊士でもあった。 ある時、京都の古道具屋に立ちよったところ、無銘だが虎徹らしい刀があった 銅の丸鐔に竜の彫り物があった。いかにも斬れそうなので、三両で買って帰った。隊長の近藤に見せると 焼刃や地金を入念に見たのち、ニ三度振ってみた 「うーむ、これは手頃だ、斬れ味もきっといいぞ」 よほど気に入ったらしく、なおも熱心に見入っていたが、 「どうだ、斎藤、わしに譲らんか、君は眼がきくからまた掘出せるよ」 「そんなにお気に召したら、差し上げます」 膝をうって近藤は喜んだ。それから常に肌身はなさず、これを愛用していた。池田屋襲撃のさいの刀もこれだった。 長さは二尺三寸五分ぐらいだった。もともと銘があったのをすり潰して、無銘にしたもののようだった。 それを近藤は虎徹と信じていたという。するとかれが手紙に、 「下拙刀は虎徹故」と書いたのは、何ら不合理ではないことになる。 なお、鴻池家から貰ったという異説もある。新撰組が大坂の警備に行っていたときのことである。ある夜かれらが隊士をつれてパトロールしていると、三、四人の覆面した怪人物が鴻池家の塀をのりこえて、こっそり出てきた。 すばやくそれを認めて、 「何者だ」 と誰何すると、返事もせずに、直ちに白刃を向けてきた。 「手向い致すか」 近藤の声が四辺の闇を圧してひびくと同時に、ぴかりと白いものがニ三条、闇に流れた。 「あっ、うーむ」 相次いで黒い影が朽木のようによろめいて、ばたばたと地面に横たわった。死体を調べてみると、莫大な現金と何か宝物らしいものを抱えていた。もちろん鴻池家から盗み出したものだった。 「これはこれは、何とお礼申し上げていいやら、つきましてはお礼の印として、刀なりと差上げたいと存じますが、お気に召すものがございましたら、どれでもお取りください」 といって、同家所蔵の刀剣をたくさん出してきた。そのなかに鉄拵えのついた虎徹の刀があった。 「では遠慮なくこれを頂戴いたそう。武州の武士が武州鍛冶の刀をさして奮闘するのは、本懐と申すものじゃ」 こういって近藤は喜んだという話があるが、どうも小説臭が強すぎるようである。 さらに、イヤ二代目虎徹の作だった。という話もある。それは、金子堅太郎伯爵が友人から贈られたもので、刃長ニ尺二寸九分五厘、反りはわずか三分で無反りに近い。 焼刃は五の目乱れの傑作、銘に「長曾祢虎徹興正」とある。 つまり虎徹興里の養子で、父の没後、二代虎徹を名乗った興正の作である。将軍家から近藤が拝領したもの、とも伝えられる。惜しいかな、関東大震災で焼身になってしまった。 これも銘にはっきり、虎徹という文字があるから、刀剣の知識にくらい近藤が「下拙刀は虎徹故」、と手紙に認める可能性は、多分にあったと思われる。 以上のほかに、近藤所持と伝えられる大太刀もある。無銘であるが、四谷正宗と謳われた山浦清麿の作、と鑑定されていた。 もと京都黒谷の青竜寺所蔵だったが、のち同寺の御茶所にいた中村小伝次氏が譲り受けた。同氏よりさらに柿沼某氏の手に移ったものという。 以上のように、「今宵の虎徹は血に飢えている」、というセリフで有名な近藤勇の虎徹も、素性を洗えば清麿の銘をすり消した偽物といい、あるいは無銘といい、さらに二代目虎徹の作という。 諸説ふんぷん、 とうてい真相はつかみがたい。この事実を裏返しにすれば、虎徹はいかに偽物が多いかを示していることになる。 虎徹の銘は、活字のように整った書体で、しかも線が細い。この点が、真に迫った偽銘の切りやすい原因のようである。 虎徹の偽物製造は古くから行われたとみえ、かれの没後、百年ばかりの刀剣書にすでに、虎徹は偽物だらけだ、と警告してある。

日本刀名工伝より