長 曽 祢 虎 徹

時は慶長5年(1600)9月16日の夕暮れ――― 燃えるような落陽が、琵琶湖に反射して佐和山城の白壁を、紅に染めていた。城廓のそこここから立ち上る煙も、紫色に染まって、ゆうゆうと消えてゆく。 城中では今さかんに炊事しているらしい。 その時、この城から北へ長々とのびている中仙道を、一人の騎馬武者が半身を夕陽にあかく染めて、ぽかぽかと蹄の音もたかくちかづいてくる。 籠手をかざしてよく見ると、盛んに鞭をくれているが、その割に馬の歩がのびない。 だいぶん疲れているらしい。 「関が原からの伝騎らしいぞ」 物見の兵がそう叫ぶと炊事の兵までがシャモジ片手に、城壁のもとに駈け寄った。 「戦況はどうだろう?」 ここ数日間、かれらが束の間も忘れえなかった。その報告が数分後にもたされようとしている。一同が興奮に身をも んでいるのも、無理はなかった。 やがてかっかっと、蹄の音も乱れがちに伝騎は天守閣のしたに乗り付けた。幔幕のなかから白髪頭の烏帽子をつけた 老将が、草摺の音もあわただしく現れた。 「戦況はどうじゃ」 伝騎は馬からすべるように下りたまま、そこにどうと崩れた。前に手をついて肩で烈しく呼吸している。鎧の下着は びっしょり汗にぬれている。 「ご苦労だった、戦況は?」 老将はたたみかけて訊くが、伝騎は頭をたれて烈しく呼吸しながら、なかなか報告しようとしない。 「水をもて、水を・・・・・・」 老将が侍臣にそう命じた。やがて柄杓の水をぐっぐっと、二口三口飲み終えると、かすれた声でうなった。 「む、無念・・・・・」 「何? さては敗れたか」 老将の顔から、さっと血の気が退いた。軍扇をもった手がわなわなと震えはじめた。 「して、倅、三成は?」 「殿は行先知れずにございます」 「うーむ、それほどの惨敗か、よーし、こうなる上は生きて甲斐なし、一同城を枕に討死じゃ」 西軍の主将、石田三成の父、為成はしわがれた声をふりしぼって、そう叫んだ。 関が原の敗北、主君の行方不明、かさなる凶報に城内はにわかに動揺しはじめた。そのとき城中には非戦闘員も多かった。 つまり婦女子のほか各種の職人が籠城していた。かれらは、こんど戦争準備のため、領内から徴用されたものだった。 兵器製作の鍛冶のほか、いろいろの職業の者が集まっていた。そのうちの頭立ったものは、大小さした武士であった。石田家から扶持を頂いているものもかなりいた。 が、職人として仕えていた、いわば半士半工の人たちだったから戦闘意識は希薄だった。なかには強制的に徴用されたものも多かった。 それらに戦意のあろうはずがない。ことに勝ちに乗じた東軍の大兵を、ちっぽけな佐和山城で支えようとしたって、しょせんはトーローの斧である。 飛んで火にいる夏の虫よりバカバカしいと彼らには感じられた 「おい、ずらかろうぜ」 かがり火の光りの届かない所ではこうした逃亡の相談がしきりに囁かれはじめた。やがて一人へり二人へり、闇夜にまぎれて逃亡する者がふえてきた。 そこで要所要所に番兵をたてたが、後には番兵もろとも逃亡してしまった。 翌16日、東軍の総帥、徳川家康ははやくも佐和山城より、2キロの地点に進出してきた。そして田中兵部小輔、石川左衛門の両人に佐和山城攻めの先手を命じるとともに諸軍に令して、落人を厳重に捜索せしめた。 そこで逃亡して我が家に逃げ帰った職人たちは、落人として処刑されてはバカらしい、遠方に逃げよう、ということになった。 妻子を小舟に乗せて、われがちに湖上にのがれた。 「やれやれ、これで安心」 安堵の胸をなでながら、後をふり返ると、佐和山城の周囲には旗指物が秋のススキのように乱立し、湖から吹きあげ る浜風に、ひらひらと揺れていた。 こうして、戦場と化した佐和山を後にして、職人たちはそれぞれ縁故をたどって、諸方に四散していった。その中に一人の染物屋がいた。 駿州由井におちのびて、そこで紺屋をはじめた。かの有名な由井正雪の父が、それであったという。 なお鍛冶屋もまじっていた。小舟が湖心に至ると心細くなったとみえ、 「父ちゃん、どこへ行くの」 四つか五つの男児が、父の鍛冶屋にそう訊いた。 「越前という所に連れてゆくよ。そこの殿様はうちの殿様と仲良しじゃでな」 「じゃ、こわくないね」 「そうともそうとも」 事実、当時の越前福井の城主、青木一矩は石田三成に志を通じ、西軍に加担していた。 そのため東軍の前田利長に攻められ、衆寡敵せず、開城のやむなきに至った。 福井がこんなに戦塵さかまく修羅場とは、夢にも知らず、鍛冶屋の一行は、ぎーぎーという櫓の一こぎごとに、目指す福井が近づくのを楽しみにしていた。 特に男の児はこんな長途の旅行はヘソの緒きって始めてのことなので、いかにも愉しそうに、真赤な顔をいっそうほてらしていた。 あとを振り返ると、もう佐和山の天守閣は、マッチの頭ほど小さくなっていた。城中では職人ばかりか、戦闘員たる武士までが勝目のない戦に見切りをつけ、三三五五逃走してしまった。 あとには三成の老父為成のほか兄重成父子、宇喜多頼忠などわずか30数士を残すだけであった。 こうした無勢のうえに、長谷川右衛門が寄手に内通して、城に火を放ったので、一たまりもなく落城した。 城中には逃亡もしかねて、まごまごしている婦女子がかなりいた。 それらは敵手におちるのを怖れて、城の断崖から身を投げた。そこでここを女郎墜ちと呼ぶようになった。当時における戦争の悲惨さを示す好箇の実例である。 職人たちもまごまごしていたら同じ運命に陥らねばならなかった。鍛冶屋も越前に着いてから、その噂を風のたよりに耳 にし、思わず身震いした。 「あのおばちゃんも死んだの」 坊やもそう訊いて、暗い顔をした。 子供心にも死別の悲哀は、大きな空洞を胸にうがったとみえる。紅葉のような掌 を合わせて静かに頭を垂れた。 この利発な坊やこそ、後年、名剣工として天下に名を轟かした、長祖祢虎徹(ながそねこてつ)その人であった。 坊や、つまり虎徹が佐和山城下の長曽祢に生まれ、同城陥落のさい越前に避難したことは、『淡海落穂集』、『淡海故事談』、『小林随翁筆記』などの郷土史にひとしく明記されている。が、前二書は筆者も年代も不明である。 文体よりみれば、江戸末期の著述のようである。で、これらの史的権威を疑う人もあるが、実はこれにはもっと古い先行 の著作があるのである。 それは『彦藩並近郷往古聞書』という古写本である。 奥書によれば、松居助内や庄右衛門の物語を集め清書したとあるが、その年代は明らかでない。 そのなかに「一説ニ近代長曽根に住居したる虎徹、北国より当国之地来りしハ、寛文(1661)年中之事なり」、という一説がある。 「近代」長曽根に居住とあるから、その一説が書かれたのは、虎徹の死よりほど遠からぬ時代でなければならない。 同じく郷土史に『淡海木間攫』という古書がある。 これには、虎徹の没後、百十四年目の寛政4年(1792)という序文があるが、虎徹のことを、「中古此処(長曾禰)ニ虎徹興里ト云鍛冶アリ」、と述べている。 百十四年後からみて、虎徹を「中古」の人というならば、『彦藩並近郷往古聞書』にいう「近代」とは、数十年このかた、という意味に解してさしつかえない。 すると80、90の老人には、実際に虎徹を見た人もいるはずである。 そんな時代に、根も葉もない虚妄の説が、しかも郷土史に記載されていたとは受取れない。 なお後述のごとく、長曾禰に帰省したときの家まで明記され、かつ遺品まであるというに至っては、真実と首肯するほかない。虚構の説としてはあまりに念 が入りすぎている。 つぎに刀剣書の説はどうであろうか――― 新刀(豊臣時代以後の刀)の研究書として、最初に刊行されたのは『新刃銘尽』である。虎徹の没後、わずか44年 目に刊行されたものである。 それには、「本国越前の住人也・・・ 又云、虎徹ハもと江州長曾祢村の住人也、後に越前に往つて、又江戸に来るといへり」と見えている。 なお本郷湯島に虎徹庄左衛門といって、虎徹の孫が現存することも付記されている。 『新刃銘尽』の著者は神田白龍子といって、有名な兵学家、講談師であった。が、後世における講談の神田派とは、関係のない人である。 通称を杢(もく)、名を勝久といい白龍子、講武堂などと号した。江戸の神田紺屋町に住んでいた。 虎徹が生まれる2年前の、宝暦10年(1760)7月23日、81の高齢でなくなった。亡骸は港区麻布六本木町の光専寺に葬られたが、墓碑はただいま現存しない。 白龍子は8代将軍吉宗が小金ケ原で、追鳥狩りをもようしたとき、特命をもって拝見をゆるされた。 それで、その時の状況をしたためて上覧に供したところ、白銀をたまわった。こうした特命を拝したのは、かれが有名な兵学家だったからである。 著書は30余種あるが、『太閤記大全』40巻、『豊臣勲功記』40巻、『浪速戦記大全』35巻、『豊臣実録』30巻・・・など軍記、兵学に関するものが多い。 かれは筆でこれらを書いたのみならず、大名や旗本にまねかれて口でもしゃべった。が、自ら講談師などと思っていないから、町家などから大金をもって招かれても、 容易に応じなかったそうである。 かれはまた刀剣の大家でもあった。 かれが白龍子と号したのは、おそらく刀剣にちなんだものであろう。 『北窓瑣談』によれば、江戸城の文庫に小鍛冶宗近、相州正宗などの秘伝書があった。 これをこのまま死蔵しておくのは惜しい、というので、将軍吉宗のとき、かれに内命があった。 「これらの秘伝書をたれか適当な刀鍛冶に拝見させ、実地に役立てたいが、誰がよろしかろう」そこでかれは、因州藩のお抱え刀工、浜部美濃守寿格を推薦したという。 こうした幕府の内命が本阿弥家にくだらずかれに下ったことは、かれが当時における刀剣界の権威だったことを示すものである。 史学にくわしく、刀剣の大家だったかれの著書『新刃銘尽』に書かれた虎徹の伝記は、十分信用に足るものとみねばならない。 つぎに虎徹の没後58年目に『新刃銘尽後集』が刊行されたが、虎徹については、『新刃銘尽』に詳しいから省略する。とあるだけである。 さらに没後ちょうど100年目に、『新刀弁疑』初版本が刊行された。それには長曾祢出身説をとっている。 ついで没後122年目にできた『新刀問答』にも、やはり長曾祢説を掲げている。最後に150年目にできた『古今鍛冶備考』も、それを主張している。 これらに対して、越前出身説をとっているのは、没後143年目に出版された『新刀実用論後編』や、その翌年刊行の『新刀一覧』などである。 前述のとおり、長曾祢説は郷土史、刀剣書の両方面からみて、真実性に富んでいるにもかかわらず、このように幕末に至るも、なお越前説があとを絶たないのは、かれの作品の銘に、「本国越前住人」と明記したものがあるからである。 だが、かれの銘にいう本国とは、いわゆる生国の意味ではなくて、所属藩という意味である。 むかしは本国と生国とは区別して用いたものである。 その一例として、かの大石良雄が山科に隠棲した時奉行所に提出した身許調べをみると、「本国生国共、播州赤穂」とかき、本国と生国を区別している。 宝暦(1751)ごろの相州綱広は養子で、生国は駿州であった。 それでかれの由緒書をみると、「本国武州、生国駿州、山村宇兵衛」と書いてある。綱広は幕府の直臣で、弓矢槍奉行の支配に属していた。 屋敷も相州鎌倉のほかに、江戸の下谷区長者町にいただいていた。それで由緒書には、「本国武州」と書いたのである。 つまり、本国とは所属藩という意味だから、島津藩のように薩州、隅州、日州の三カ国にまたがっているところでは隅州や日州の住人であっても、その旅行手形には本国薩州と書いたものである。 したがって虎徹が銘にきった本国越前も、所属藩が越前という意味であって、生国が越前という意味ではないから、銘にいくら本国越前と切ってあっても、生国はどこだって構わないわけである。 そこで虎徹の身許を詳しくいうならば、生国江州、本国越前と区別しなければならない。 ところで、かれは何故に刀の銘には、麗々しく本国越前のみをあげたのであろうか、それには二つ の理由があげられる―― 一つは、長曾祢にいたのは頑是ない幼児の時だけで、それ以後、50歳位まで越前で活躍していたのだから、第二の故郷である越前に、最も愛着を感じたからであろう。 試みに幼稚園時代から東京で育った人に、 「失礼ですが、お国はどちらで?」 と尋ねたら、誰でも 「私は東京です」 と即答するであろう。が、あるいはこう反駁するかも知れない。 「その場合は、東京と答えることに誇りを感じるからだ」 この故郷を美化したい心理は、万人に共通のものだろうから、虎徹にもそれがあったとみねばならない。これが第二の理由である。 つまり、越前福井藩は、2代将軍の実兄、中納言秀康を藩祖とし、「制外の御家」とよばれたほど、格式の高い国だった。そこを本国と称することは、何かと好都合だったからだと推測される。 現に同族の長曾根俊家が、日光東照宮の金具を、同元俊が上野東照宮の金具を謹作しているのも、越前家の背景なしには考えられないことである。 かの葵下坂の名で世に知られた越前康継も、虎徹と同じく江州下坂から、越前に移住したものであるが、のちに将軍家のお抱え鍛冶に採用されたのも、やはり越前家の刀工という七光りがあったからである。 かれが銘に「越前康継」と、特に越前の二字を冠して切るのは、やはりそれに大きな誇りと効果を認めていたからである。 虎徹のばあいにも、それがあったことは想像にかたくない。 以上の二因によって、かれが本国越前と自称した事情は、ほぼ説明がついたと思うが、生国が江州長曾祢だったのである。第一、その姓がそれを雄弁に物語っている。 長曾祢とは現在、彦根市内である。

日本刀名工伝より