関の孫六兼元

関の孫六という名は正宗、村正とならんで大衆に親しまれている。つまり大衆とともにある名工の代表者といえよう。 関の孫六三本杉という語呂のよさも大衆の人気をあつめる原因の一つになっている。三本杉というのは孫六が創案した刃文の名称である。 こうした専門語が素人の口からすらすらと出てくるのは、やはり孫六三本杉という語呂のよさにありそうである。もちろんそんな心理的効果をねらって、孫六という通称をつけたり、三本杉という刃文を考案したりしたわけではないが、後になって、それが思いがけない怪我の功名をしたことになる。 かれも草葉の陰でさぞ微苦笑していることであろう。あるいはぷんぷん怒っているかも知れない。 「見損なっちゃいけねー、おれの真価はそんなところにはねー」 なるほど、かれの人気のわいてくる泉はそんな浅在的なものではない。日本刀は工芸品である以上、その実用性も優秀でなければならない。それが欠けていてはいわゆる白痴美である。 知性のない美人は、そっと長火鉢のまえに据えておくほかないように、実用性に欠けた日本刀も菖蒲の節句の飾物にしかならない。孫六はそんな飾り物の職人ではなかった。 あくまで日本刀の実用性に徹した利剣の作者であった。つまり斬れ味を表看板にして売り出したのが孫六であった。 孫六の三本杉という基本型は、三本目が杉の木立のように高くなった刃文である。ちょうど鋸の歯のようで、あまり幾何学的すぎるので、単調なきらいはあるが、その鋭さはただちに斬れ味の鋭さを示している。 孫六の刃は焼き幅のせまい傾向があるので、研ぐ減りがひどくなると、刃文が刃先にぬけてしまうことがよくある。 そこは刃がないわけだから、普通の刀工の作だったら刀を研いでゆくうちに、そこだけが早く研ぎ減ってしまう。 そこだけ刃がかけたように引き込むのが通則であるが、孫六にはそれが見れないどころか、そこでほかの刀が削れるのだから感嘆のほかならない。 刃のないところで他の刀が削れる、それほどの強靭性をもったかれの作品が斬れなかったら、天下に斬れる刀はあるまい。 なお孫六に身幅をひろく重ねをうすくして、刃通りをよくしたような剣形のものが多い。 こうした斬るに適した力学的形態に、さらに刃金の強靭性がプラスされて、感嘆すべき孫六の斬れ味が生まれたのである。 孫六が天下無双の斬れ味をしめす実例として、まっさきに想起されるのは青木兼元である。 刃長2尺3寸3分、反り4分強、刃先のびていかにも切れそうである。 これには「真柄斬り」という異名もあるとおり、北国一の豪の者とうたわれた真柄十郎左衛門直隆を、青木所右衛門一重が斬ってすてたという伝説のある業物である。 時は元亀元年(1580)6月姉川合戦の折のことである。 真柄は朝倉氏の家臣で、仁王様を片手であしらうような豪傑であった。何しろ身の丈6尺4寸8分、体重67貫300匁、歩けば平地が1寸ほどめり込むという始末、その上さらに甲冑の重さが60貫、しめて127貫300匁では馬はおろか、象でも尻餅をついてしまう。 仕方がないからいつも地球をじかに両足でふまえて闘った。 手には5尺3寸の大太刀をかるがると提げ、風車のように振り回すので危くて近寄れなかったらしい。 しかし危いとか、怖いとかいっていては戦争にならない。思いきって青木一重がたち向かったところ、運よくさしもの怪物をしとめることができたというが、それは誤りである。 匂坂式部、弟五郎次郎、匂坂六郎五郎およびそれらの郎党がタバになってかかり、ようやく討ち取ったというのが真相である。 では青木が斬ったのは誰かというと、十郎左衛門の嫡子、十郎隆基であったらしい。 青木系図にそう明記されている。しかし十郎も父を一回り小さくしたような豪傑であった。4尺7寸の大太刀であばれ回ったというから、これも普通人の手におえない超特大型である。 それを標準型の青木がどうして仕留めたかというと、 なーに 十郎は手傷おい、弱っていたからですよ」 と後年、古田大膳亮重治に語ったという。おそらくそれは真相であろう。 しかし父の討死をきいての精神的ショックが、あるいは肉体的負傷よりもかえってかれの闘志を奪ったのかも知れない。 そうしたチャンスに乗じて、青木はめでたく十郎の首をあげることができた。そのとき関の孫六で一刀のもとに十郎を斬りたおしたので、真柄斬りの異名がついたことになっているが、それも事実は少し違うようである。 青木はまず鎌槍をもって十郎とわたり会ったというが、当時における武士の表道具は槍だったから、それは信じてよさそうである。 すると鎌槍を引っかけ十郎の右手をかき落した、というのが事実のままでなくとも、それに似た事実のあったことは承認してよさそうである。 結局、まず槍をもって致命傷をあたえたのち、腰の孫六をぬいて一刀両断したというのが真相のようである。 こうして「真柄斬り」の勇名を天下に轟かしたこの孫六はその後、青木一重の遺言によって形見として丹羽家に贈られた。 それはかつて丹羽の家臣だったからである。 旧主を忘れないかれの芳志は、この名刀に錦上花をそえて、永く丹羽家に香っていたが、戦後は同家をでて、ただいま某氏の有に帰している。 姉川の合戦から13年目におこったのが賤ケ岳の合戦である。 そのとき細川家の家臣に、古田古助左衛門という勇士があった。孫六2尺4寸4分の業物をふりかざして目覚しい活躍をした。 その後もあちこちの戦場で素晴らしい斬れ味をしめした。古田の孫六は凄い、という評判は徳川家康の耳にも達したほどだった。 古田は臨終にさいして、それを同族の槙島監物昭重に贈った。 監物はそれを提げて大坂の夏、冬の両陣に出征し、斬れ味の素晴らしさで敵味方の眼をおどろかした往年の勇士も老いの波には勝てず、いよいよ隠居するというとき、孫六のナカゴに「笹露 槙島監物所持」という金像眼を入れて、古田の孫にあたる槙島半之丞にゆずった。 これから300年間、こうした由来をしたためた監物の手紙とともに槙島家に伝来されたが、明治25年に佐々干城氏の手にわたり、ただいま某氏に秘蔵されている。斬れ味とともに刃文の美事さも、孫六の傑作として推奨に値するものである。 二念仏という異名のついた孫六が前田元伯爵家にあった。 前田利家の次男利政が慶長3年(1598)能登国21万石を分与されて入国のさい、供先をきった下手人を成敗したところ、念仏を二へん唱えてからぱったり倒れた。 それで二念仏と名づけられたという。 地蔵斬りと呼ばれる孫六が石川元子爵家に伝来されていた。 異名の由来は明らかでないが、おそらく石の地蔵尊を二つにした、というような秘話が隠されているのであろう。 これは戦前すでに同家をでて一時『刀剣と歴史」の主幹、近藤鶴堂氏が所蔵されていた。そののち某氏が戦場に帯びていった。さぞ水もたまらぬ斬れ味を示したことであろう。 兼元のこうした斬れ味のすごさを愛して古来、武人の秘蔵刀となったものが多い。 たとえば長篠城の脱出物語で名高い、鳥居強右衛門勝商の愛刀もそうであった。 これは強右衛門がかつて奥州の羽黒山に参詣したとき同山の僧正から贈られたものだったので、僧正兼元という異名がついていた。 かれが長篠の露と消えたのち、主君奥平家に献じたので、それから同家の秘蔵刀となったものである。 兼元の焼刃は「関の孫六三本杉」と素人まで口ずさむとおり、三本杉になっているのが普通であるが、まれには直刃のものもある。 中心につぎのような金象眼が入った直刃の兼元がある。ただし兼元という二字だけは、かれ自身が切ったものである。 (表)此「兼元」甲州太守浅野幸長公 依讒奏能登在国砌 (裏)為後代契約 浅野孫左衛門尉賜之 慶長元丙申七月日 浅野孫左衛門尉は名を高勝とよばれ、もと明智光秀の家来であった。 光秀が三日天下のはかなさで竹槍の露と消えると、当時大津城主だった浅野長政に招かれて、その子長満丸、つまりのちの幸長のお守り役になった。 どんな讒言によって能登国に遁れたか明らかでないが、孫左衛門尉は朝鮮の役に出陣している。 するとおそらくかの地における行動について讒奏され、豊臣秀吉の怒りを買ったものであろう。浅野幸長にとってかれは師であり父であった。 そこで離別にあたって「太閤の怒りはきっと解けるよう、幸長が責任もって取りはからう。その誓いの印として後日のため余が秘蔵の孫六をそなたに贈る」 といってこの直刃の兼元を与えたもののようである。 あした(朝)には恩をうくるも、夕べには死をたまう戦国の習いとはいえ、十数年間、影のごとく付添ってきた主君幸長から、この一刀を差出されたとこ、さすが勇士のかれもはらはらと柄の上に落涙したことであろう。が、英雄の誓いは孫六の刃のように堅かった。 程なくかれは勘気がとけて帰国した。そして後に関が原の役にも出陣し、幸長に大功をたてさせた。 その時かれが腰間に横たえていた一刀は、きっとこの孫六に違いない。 この兼元を眺めていると、焼刃は単純な直刃であるが、そこに、古人の悲喜入りみだれた複雑な表情が、まざまざと映っているのを看取するであろう。 智恵伊豆といわれた松平伊豆守信綱の嫡男、甲斐守輝綱の陣刀も兼元であった.天草の乱のとき父にしたがって原城を攻めた。 血気にはやった彼は従臣数名を率いて、城中に斬りいろうとした。父信綱もその無謀を叱ったが、なかなか断念しない。 そこで家臣岩上角之助が陣羽織の裾をひいて、連れ戻そうとした。輝綱は怒って腰の孫六をぬきはらった。 無礼者、と大喝して角之助のカブトを棟打ちした。カブトの八幡座は砕けてとんだが、角之助はなおも放さない。ついに輝綱も根負けして引返した、というエピソードがある。 山内元伯爵家には、大仙という異名のついたものがある。 いずれ藩主の愛刀だったと思われる。天誅組の総裁だった藤本鉄石が討死まで帯びていたのも、三本杉あざやかな兼元であった。 伊豆の韮山に反射炉を築いた江川坦庵は、みずから刀を作ったほどの愛刀家であった。 かれも孫六を差料にしていた。柄をポンとたたいて、刀はこれに限る、といっていた。それほどの傾倒ぶりも、兼元の斬れ味にぞっこん惚れこんでのことに違いない。 時は万延元年(1860)3月3日の朝― はや上巳の節句というのに、江戸では珍しい大雪であった。見わたすかぎり一面の銀世界で、わずか千代田城のお堀だけ、さむざむと黒ずんでいた。 井伊家の八文字におしひらかれた門から揃い赤合羽に身をかためた行列がくり出された。 見るみるうちに、赤合羽のうえに雪が白くつもって行った。行列が桜田門にさしかかった時、 「捧げます」 と、叫びながら、森五六郎が訴状のようなものを手にしておどりでた。 それを遮ろうとして、日下部三郎衛門、沢村軍六の両人がかけよると、森はパッと笠と羽織も脱ぎ捨て、あっという間に両人を斬り倒した。 そのつぎの瞬間には、関鉄之助がぶっぱなした短銃の轟音を合図に、有村次左衛門らが白刃をふりかぶって行列のなかに突進してきた。さらに鯉淵要人らが行列の前面に襲撃してきた。 「狼藉者は先頭だ」 というので、井伊家の供廻りたちは行列の先頭に集まった。 そして掃部頭の駕籠わきが手薄になったのを見澄まして、佐野竹之助、稲田重蔵らが駕籠をめざして真一文字に突進してきた。 川西忠左衛門は得意の二刀流で必死になって駕籠を守ったが、衆寡敵せず、白雪を真紅にそめて斃れた。稲田は重傷にも屈せず供廻りを蹴散らして駕籠わきにたどり着いた。 「掃部頭、覚悟!」 朱にそまった備前祐定を、ぐさりと駕籠の中央めがけて刺しこんだ。つづいて海後瑳己璣之助が延寿国村の大刀で、二た突きついた。すると中からウームといううめき声が洩れてきた。 その時疾風のように駆け寄ってきたのは、薩藩の有村次左衛門兼清であった。 駕籠の戸をガラリとあけて、前のめりになった掃部頭の体を引きずり出した。そして、エイという軽い掛声もろとも、首をうちおとした。水もたまらぬ斬れ味であった。 それもそのはず、有村の刀は関兼元、2尺6寸の大業物であった。 もっとも、その兼元は有村自身のものではなかった。同じ薩藩士の奈良原喜八郎から借用してきたものであった。掃部頭を討取った、という気のゆるみもあったのであろう。 首級をひっさげて逃げ出すところを、供廻りの小河原秀之丞に斬りつけられた。傷が深手だったので、とうてい遠くまで逃げ延びることは不可能だった。 竜の口まで来たとき、精魂つきて自決した。 こうして彼が齢(よわい)23の若桜で散ったあと、殊勲をたてた兼元の刀は、どうなったことであろう。 おそらく原所有者の奈良原家に返されたとは想像されるけれども―

日本刀名工伝より