五 郎 入 道 正 宗

宝刀への飛躍 正宗は室町後半期になると、将軍の御物や武将の進物の候補にあげられたが、それが現実した例は、確かな史料にはほとんど見出されない。永亨四年(1432)、足利将軍義教が富士山見物に下向した時をはじめとして、寛正七年(1466)の『飯尾宅御成記』、大永三年(1523)の『伊勢守貞忠亭御成記』、永禄四年(1561)の『三好義長亭御成之記』、同十一年の『朝倉亭御成記』などには、進物として多くの刀剣が挙げられているが、正宗の名は見出されない。 ただ稀有な例として、室町後期の天文二年(1533)、大友義鑑が修理太夫に命じられたとき、将軍義春から正宗の脇指を、お祝いに贈られたことがある。また本阿弥光悦の押形本を見ると、永禄元年(1558)六月、武田信玄は真田市平に対して、「当家之重器くさりきり正宗之刀ヲ褒美として差遺」しているが、これらのほかには正宗が贈与に用いられた例をほとんど聞かない。すると江戸時代におけるように、正宗を進物視する風習は、まだ発生していなかったとみなければならない。 進物として正宗が史上に、頻繁に現れはじめたのは、織田信長のころからである。天正九年(1581)七月二十二日の朝、信長は嫡子信忠へ正宗の脇差、次男信雄へ北野藤四郎、三男信孝へシノギ藤四郎を与えている。後の二刀は『名物帳』にもでている天下の名物であるから、信忠への正宗も、それに劣らぬ宝刀だったに違いない。 その前年の二月二十二日、堺の天王寺屋宗及が、信長の蔵刀を拝見した時の日誌によれば、二十二振り拝見のうちに正宗が三振りまじっている。上竜下竜正宗、大通し正宗、ウチイがそれである、上竜下竜は『名物長』に徳川将軍家蔵としてある、上下竜正宗のことであろう。他の二刀は『名物長』にも見当たらない。それはあともかくとして、信長の信忠に与えたのは、これら三振りのどれかであったに違いない。 一世の英傑、秀吉が慶長三年(1598)七月、桐の一葉と散りはてると、諸侯に形見分けが行われた。刀剣百六十六振りのうち、正宗が三振りあった。三好正宗は前田利家へ、タイシヤ正宗は細川忠興へ、毛利正宗は京極高知へ贈られている。 以上の事実より推察すると、正宗を進物の上位におく風は、信長時代にはじまり、秀吉時代に盛んになり、江戸時代に最高潮に達したもののようである。 将軍の佩刀にされた正宗も、室町時代以前の確かな史料には見出されないようである。松平定信の『集古十種』に、楠正成の差料と伝えられる楠龍正宗を揚げているが、これも楠正成と結びつけるには、確証を欠くものである。 相州荒井主、三浦義銅の子息、荒次郎義意が、永正十三年(1516)七月、北条早雲にかこまれ討死したとき、家伝の五尺八寸、正宗の大太刀をふるって奮戦したというが、このことの見えている『北条五代記』は、江戸初期の著作にかかる軍記物語だから、史実としてはいただきかねる。 大内義長が弘治三年(1557)四月、毛利元就の軍にやぶれ、長福寺で自尽したとき、大内重代の正宗鬼切という太刀で、杉民部大輔が介錯したということが、『後太平記』に見えている。が、これも井戸初期に書かれた軍記物語だから、信用できない。大内家重代の名刀は同家滅亡後、毛利家から厳島神社に奉納された。それは千鳥、荒波、乱髪、菊作、小月などの五振りで正宗は混っていなかった。第一、正宗鬼切という名称からがおかしい。『太平記』などに見る源氏の重宝、鬼切をもじった、架空の刀に違いない。 なお大内義長に殉じて、討死した冷泉隆豊が、正宗の三尺二寸という大太刀をふるって、寄手七人を斬りふせる、という勇壮な場面が『西国太平記』に見えている。これも江戸時代初期、寛文三年(1663)刊行の軍記物だから、史実としての価値はまずないといってよろしい。 星月夜という異名ある正宗が、土屋子爵家にたった。これはもと足利義輝より永禄年中に、武田信玄に贈った刀である。それがのち徳川家康の手にわたり、六男忠輝に与えられた。どういうわけか、それから水戸徳川家に伝来され、正宗の鑑定になっていたが、幕末にいたり、土屋家に贈られたものである。これも無銘で、江戸時代にくだってから、正宗と極められたものである。足利家や武田家において、誰の作といわれていたが不明である。江戸時代には京の長谷部、明治時代には備前長船兼長と鑑定されたこともある。とにかく正宗というには、ちと無理な刀である。 武田家の重器として、鎖切り正宗のあったことは前途の通りである。『光悦押形』を偽書でないとすれば、室町時代における武家の宝刀として信用できるのは、この鎖切り正宗くらいのものであろうか。ただしこれも無銘だから、真の作者は神様でなければ判らない つぎに刀剣書としては『名物長』に、室町時代の武将の佩刀として、正宗数振りをあがている。が、これも江戸中期に下ってから、史実に暗い本阿弥家の解説であるから、どこまで信用していいか疑問である。織豊時代の記事さえ誤伝がある。まして室町時代のことはいかがかと思うが、試みに紹介すれば、まず豊後正宗という短刀がある。これは多賀豊後守高忠の差料だったというが、豊後荷揚城主、竹中重隆の所持という異説もある。高忠は室町中期の寛正三年(1462)、京都所司代に任じられ、文明十八年(1486)に没した人で、本阿弥光悦の曾祖父にあたる。故実や軍学に関する著書があり、刀剣の鑑識にも長じていたようである。すると、彼の差料ならば名刀に違いないが、何しろ無銘である。はたして正宗と思っていたか否か、それさえも疑問である。 二筋樋正宗は、山名弾正少弼教豊の差料であったという。教豊は応仁の乱の張本人であった山名宗全の嗣子であったが、父に先立って、応仁元年(1467)九月、陣中に没している。これも無銘の短刀だから教豊のときは、果たして正宗と鑑定されていたか不明である。  無銘は見る人のよって、鑑定が違ってくる。『名物帳』に正宗とあっても、以前は他の鑑定だったものがかなりある。籠手切り正宗はその好例である。 これはただいま皇室の御物になっているが、明治になって前田家から献上したものである。前田家には利常のとき入り、本阿弥光刹の鑑定で、正宗と極められたものである。それ以前は上州佐野城主、佐野信吉いのもとにあって、相州行光(正宗の父)という鑑定になっていた。それで佐野行光と呼ばれていた。 それ以前は、大津伝十郎の秘蔵であった。伝十郎は織田信長の小姓で、摂州高槻の城番を勤めたこともあるが、本能寺の変にあたり、信忠とともに妙覚寺の煙と化した人である。籠手切り正宗の中心には「朝倉籠手切太刀也 天正三年十二月 右幕下御摺上 大津伝十郎拝領」と彫りつけてある。かれが右幕下、つまり織田信長より拝領したものである。もともと刀長三尺二寸の大太刀だったのを、信長が天正三年(1575)十二月、二尺二寸六分五厘にすり上げさしたものである。 信長以前には越前の朝倉家にあって、すでに籠手切りの異名を付せられていたことは、この銘によって明白である。何故、籠手切りと呼ばれたか、「日下部系図」を見ると、朝倉氏景は十七歳の弱年をもって、文和四年(1355)二月十五日、東寺の戦に出陣した。そして貞宗の太刀を揮て、敵の鞲を斬りおとした。それを記念して、中心に「鞲切」と銘を入れたという。鞲は弓をひくとき、右手の指にはめるものだが、ユガケ切りでパッとしないので、いつしか籠手切りと変化したと見える。 朝倉家にあるときは、貞宗の太刀と明記してあるから、おそらく相州貞宗の銘があったものであろう。それを信長が一尺近くもすり上げたもので、銘の部分はもちろん切り捨てられた。無銘にすれば何とでも鑑定される。佐野家では行光に変化し、前田家では正宗に出世しても、一向に構わないが、文和四年といえば、吉野時代である。正宗の没後、間もなくその頃から正宗が、朝倉家の名物になっていたとすれば、事重大であるが、その頃は正宗ではなかった。正宗となったのは、正宗が宝刀視されるようになった、江戸時代に下ってからのことである。 戦国の雄、上杉謙信は刀好きであり、みずから愛刀を提げて、敵陣へ斬りこんだことも数多かったが、正宗を愛用した史実は伝わっていない。同家には山内管領時代からの伝来で、「正宗」と二字銘、三尺一寸八分の野太刀が伝蔵されていたが、それさえ謙信は正宗を眼中におかなかった、と推定さざるを得ない。 上杉家に本庄越前守繁長という重臣があった。天正十六年(1588)庄内を攻めて、東禅寺右馬允を討ちとった。そのとき、右馬允が繁長のカブトに斬りつけた刀が、後年「本庄正宗」とよばれ、徳川家の世譲りの重器になった。これもすり上げ無銘である。家康が本阿弥光徳と、出羽大掾国路という刀工に鑑定させ、正宗と極まったものである。東禅寺家にあるとき、だれの作ということになっていたか明らかでない。これなども正宗の流行熱に乗って、でっち上げられた正宗の感がふかい。 以上のように、たとえ「名物帳」に室町時代の武将の佩刀とあっても、確かな傍証をそなえたものでなく、たまたまあると、籠手切り正宗のように、それを否定する結果になったりして、正宗が刀剣界の寵児だった形跡はとんと見当たらない。それが信長時代になって人気が出はじめ、秀吉の時代となると、もう押しも押されもせぬ人気者になっている。太閤所持七十三腰のなかにも数振りを数えるに至った。豊後正宗、上竜正宗、若江正宗、長銘正宗、鍋通し正宗などのほか二刀が、豊公の愛撫をけている。異例の出世といわねばならない。 では、刀剣書における人気はどうであろうか── 刀剣界で「注進物」というのは、鎌倉末期に斬れ味がすばらしい、という評判のあった業物六十工を選定したものである。その中に相州国重のほか、正宗と同時代の数工をあげているが、正宗の名は見出されない。もっとも、その奥書に正和二年(1313)正月十一日とある。正宗の在世中のことだから、まだ斬れ味が評判になるほどの、機会に恵まれていなかったとも考えられる。 しかし「新作物」には、挙げられねばならない。これは足利義光のころ、鑑定の大家として知られた宇都宮三河入道が、当時の新刀六十工をあげたものである。そのなかに、正宗門人の筑州住左は入っているが、先生の正宗はオミットされている。 室町中期の文明ごろに書かれた刀剣書によれば、左の刀は正宗より斬れ味優秀だった。注文も左のほうがずっと多かったので、正宗からねたまれ、鎌倉から追放された。そこで近くの山之内に隠れていて、無銘でどしどし作品を出した。それがたちまち評判になって、鎌倉の人気をさらったので、今度は関東を追放された。いたしかたなく九州の博多に逃げて行ったという。この伝説は正宗の没後、百二、三十年のうちに書かれたものであるから、おそらく事実に違いない。すると美観はともかくとして斬れ味は正宗より勝れていたことになる。「新作物」のなかに正宗はなくとも、彼をあげた理由がわかるような気がする。 なお『観智院本銘尽』の最後に、「神代より当代まで上手之事」と題して、四十二工をあげている。その中に、正宗と同時代の了戒という刀工をあげているにもかかわらず、正宗の名は見出されない。嘉吉元年(1441)の奥書ある刀剣書(剣掃文庫旧蔵)がある。実際は室町末期の写本らしいが、それに上々御物として宗近、粟田口国綱、国友、久国、国吉、吉光、国宗、神息、行平、定秀、光世、安綱、真守など十三工をあげているが、正宗の名は見だされない。以上の諸事実は、たとえ正宗が上工ではあっても、当時の鑑定家から、あまり問題にされていなかったことを示すものである。 室町中期ななると、正宗の地位は大いに向上している。文明(1469)ごろの代付をみると、三条宗近、粟田口吉光など十二工が一万疋で、Aクラスである。Bクラスは六工で、五千疋に半減している。そのなかに正宗、貞宗、広光などの相州鍛冶がふくまれている。正宗の人気が高騰そたとはいえ、Bクラスで、しかもAクラスの半額とは情けない。 永禄二年(1559)に写した『天文銘鑑』においては、吉光に「極上ならば不得在代」、宗近に「出来程にて百(貫)ノ上もあるべし」と注しているが、正宗、久国、国網、行平などには「極上ならば太刀は百(貫)よりあまるや」と注している。正宗の価格もだいぶ上がったようであるが、豊臣時代の天正十九年(1591)の代付けではやはり宗近の百貫に対して、正宗は半額の五十貫にすぎない。それが江戸初期になると逆転して、宗近の十五枚にくらべ、貞宗は五十枚にはね上がり、正宗は無代、つまり天井知らずで度肝を抜かれる。 正宗の作風についての解説も。時代がのぼるほど平凡である。足利末期に、三好下野入道釣閑斎という武家目利きがあった。この人の口伝を筆録したものを見ても、別にとりたてた説明もなく、お世辞一つ述べていない。 それが江戸時代になると、俄然、美辞麗句のハンランとなる。時代とともに程度がひどくなり、江戸末期の『古今鍛冶備考』になると、「本邦鍛冶中興の祖神と仰がる、十の妙所に十三種の沸あり」などと、神様あつかいにして、仰々しい賛辞をならべている。人気は人を饒舌ならしめると見える。 以上のように、正宗を進物、所持者、刀剣書などの三点から観察すると、室町時代にはなるほど、名工の一人とは目されていたが、特に人気者というほどではなかった。それに白熱的な人気のわいたのは、何といっても豊臣時代からである。秀吉の豪放濶達な気象を具象化して、桃山文化が絢爛豪華だったことは、今さら説明を要しないであろう。 正宗の作風は、一口にいえば豪壮華麗である。彼によって創始された、いわゆる相州伝の特徴は、刀の身幅をひろくした豪壮な剣豪形と、沸の豊かな大乱れという華麗な焼刀とに要約される。こうした正宗の特徴は、桃山文化のそれにピタリと合致するものである。その結果、室町時代には知己をえず、空しく他工とザコ寝していた正宗が、相性の秀吉というパトロンに見出され、一躍、刀剣コンクールのナンバー・ワンに推された、と解すべきである。江戸時代における正宗熱は、その情勢によって、加速されたとみれば足りるであろう。 偽物罷り通る 正宗宝刀視の気運が天下にひろまると、世人は争って正宗をもとめた。殊に大名たちは、正宗を腰に帯びて奥州六十四万石の太守、伊達政宗がある日、登城していると、談たまたま刀剣におよんだ。 「伊達殿の脇差は、定めし正宗でござろうな」 名の正宗を、刀の正宗にかけた冗談だったかも知れないが、日ごろ反りのあわない加藤嘉明にこういわれると、負けずぎらいの正宗、意地でも、 「無論のこと──」 といわざるを得なかった。が、実は正宗ではなかった。京の信国であった。 「しからば拝見……」 嘉明がそういい出しはしないか、と内心ハラハラしていたが、別に刀剣がわかる訳でもないので、そこまでいわなかった。正宗は恥をかかずに済んだ。やれやれと、虎口を脱した思いで帰邸すると、ただちに茂庭周防をよびだした。 「正宗の脇差があろうの」 「恐れながら……」 「何?ないと申すか」 「はっ、長い刀ばかりでござりまする」 「では、直ちに脇差になおせ」 「あの、すり上げて脇差に、そんな無茶な……」 茂庭は蒼くなって、必死に止めたが、一徹をもって鳴る正宗、 「だまれっ、六十四万石の大名が嘘がいえるか」 てんで取りあわないので、ついにお抱え鍛冶の山城大掾国包に命じて、脇差になおさせた。そして「振分髪」という異名を、中心に彫りつけさせた。それは くらべし来し振分髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき という『伊勢物語』の古歌によったものである。この史話からも推測されるように、昔の大名にとって正宗は必需品であった。だが、今日この刀を実見すると、室町期の備前物としか見えないものである。しかも、これは同家の『御腰物本帳』(著者蔵)によれば、幕末になって伊達家の飛地だった、常陸国稲敷郡竜ヶ崎(茨城県竜ヶ崎市)の代官が献上したもので、正宗とはまったく無関係のものである。 幕末のことである。土佐の山内容堂が、筑前秋月の城主、黒田長元にたずねた。 「大刀の中身は、失礼ながら誰の名作でござるか」 「正宗でござる」 秋月藩はわずか五万石である。どの程度の正宗か、見たくおもったのであろう。 「拝見は叶いますまいか」 「いと易いことでござる」 長元は大刀を取りあげて、鐔もとのネジをひねり始めた。抜けないようにネジ止めとは、心がけのよいこと、と感心しながら見ていると、やがて柄が鐔もとから、ポコッとはなれた。長元は鞘の鯉口を鼻にあてて、 「正宗のにおいは、さすがに天下一品、さ、一杯いかがでござる」 と盃をさし出した。同じ正宗でも、三水(酒)のついた正宗だった。それにはさすがの粋人もまいった。 とにかく、昔の大名に正宗は付きものであった。この傾向は勢い下々にも伝染して行った。その結果、正宗の需要は無限大といいたいほど多かった。が、正宗の遺作がそんにあろうはずはない。今さら正宗をあの世から連れもどして、作らせることはできない。そこで需要供給の経済的関係から、必然的に生まれたのが、今様正宗の出現であった。つまり正宗の偽作であった。それに誂え向きなことには、古来、正宗は無銘が多い。という伝説があった。作風の類似した刀を探してきて、銘さえすり消せば、立どころに無銘正宗ができあがる。世人は、正宗にかぎり無銘で当たり前、と信じ込んでいたから、折紙さえ付ければ、正真と信じて疑わなかった。他愛のない話である。 正宗の偽物横行には、確かに正宗の無銘説が一因をなしていた。この説のよって来るところは、ずいぶん古いようである。室町初期の刀剣書に、すでに無銘の多いことが説かれている。何故無銘にしたか、他工の作に紛れない、という自信があったからともいうし、また中心の恰好が他作に紛れないからともいう。あるいは直刃だけは他作とまぎれる危険性があるので、在銘にしたともいうが、乱れ刃にも在銘のものがあるので、この説は通用しない。 二尺以上の刀に無銘の多い理由は、以上の三説のはかに、短くすり上げたためということが挙げられる。『太平記』によれば、当時は三尺、四尺はおろか、六尺、七尺といいう物干し竿式大太刀が流行した。それを後世、二分の一、三分の一にすり上げたため、銘の部分は切って棄てられた。が、数からいえば、そんな無銘の正宗のおおくは、他作の銘をすり消して、正宗の鑑定を付けた偽物といってよかろう。 その証拠には、『名物帳』所載の名刀にすら、偽作過程の歴然としたものが数振りまじっている。前にあげた籠手切り正宗も、その一例である。前田家の宝刀、小松正宗はじめ同家のお抱え鑑定家、本阿弥光甫に見せたところ、正宗と鑑定した。そこで本阿弥の本家に極めに送った。ところが意外にも、肥後の延寿国資という折紙をつけた。正宗と国資とでは、位列が月とスッポンであるほか、作風もまったく違うのが常識である。 おそらく光甫の入れ知恵であろう。茶道の名人、小堀遠州に金粉で無銘の由を鞘書きさせて、ふたたび本阿弥家に送ったところ、今度は正宗の父行光、という鑑定になった。 「正宗に近くなったぞ、もう一度おくってみよう」 という相談になって、暫くしてからまた送ったところ、案の定、正宗の折紙がついた。延寿国資が正宗に変わるとは、鑑定常識を無視した話であるが、事実だから致しかたない。 徳川家に宗瑞正宗という短刀があった。これもはじめ相州行光という鑑定であった。本阿弥光徳の筆跡で、「をたい行光」と鞘書してあったが、のち正宗に出世したものである。父から子への転身だから、これなど罪のない方である。 なお本阿弥家で、正宗に見えるよう細工した刀もかなりある。土岐元子爵家伝来の毛利正宗は、本阿弥光通が千貫で買ったが、大きな疵があり、中高で恰好がすこぶる悪い。そこで正宗に見えるように、整形するとともに、刃長二尺一寸八分あったのを、五寸五分ほどすり上げて、中脇差になおした。正宗の中脇差は当時、稲葉家に一振りあるだけだった。天下の珍品ということになり、宣伝効果があるので、そういう小細工をしたものである。  尾州徳川家伝来の不動正宗は、在銘の珍品である。不動明王の彫物があるので、その名を得たものであるが、正宗の彫ったものではない。本阿弥光二が野間玄琢(医師)の祖父にたのんで、あとから彫らせたものである。そうすると、価格をうんと釣上げられるからである。 紀州徳川家伝来の日向正宗には、ゴマ箸といって、短い樋(溝)を二本並べて彫ってある。これも本阿弥光徳が彫らせたものである。 本阿弥家でこんな小細工をすると、それを模倣する者がでた。浅野家に、樋のなかに剣を浮彫にした、正宗の短刀があった。この彫物は堺の町人、岡本道意が刻ませたものであった。 以上のように、彫物をあとから盛んに追刻したのは、価格釣上げのほかに、古来正宗には彫刻のないものは少ないといわれていたので、その掟にあわせできるだけ正宗らしく見せよう、という意図が隠されていた。 何故、本阿弥家がそんなに、正宗の偽作に熱心だったか── 当時の桃山趣味によって、正宗礼賛の風潮が出現すると、それに迎合した点は確かにあった。が、そのほかに正宗の折紙をつけ、売買することによって、自己の懐を肥やし得たことも事実である。『名物帳』を開くと、本阿弥家から諸候に売りこみ、または売買の仲介をしたものが、たくさんある。夫馬正宗を前田家が売りにだしたとき、本阿弥光甫が仲介して、加藤家に買わせたことや、毛利正宗を本阿弥光通が整形して、土岐家へ売ったことは、さきに述べた。 早川正宗は、早川伝右衛門という浅野家の家臣が、江戸に売りにきた。鞘もなく反故紙にくるくる巻いたままだったが、本阿弥光甫が正宗に極めて、将軍家へ買上させたものである。 前田家伝来の後藤正宗は、もと本阿弥光伯が買ってきて、後藤庄三郎へ売ったものである。 中務正宗は、はじめ本阿弥光徳が仲介して、本多忠勝に買わせたが、のち将軍家へ献上したものである。 三好正宗も将軍家の秘蔵刀だったが、もと三好長慶が本阿弥光刹の世話で、金十六枚で求めたものだった。そのとき、周施料として光刹がいくらか、頂載したことはいうだけ野暮である。 以上は『名物帳』所載の分だけである。その他で、こうして本阿弥の手を経たものは、おそらく百をもって数ええるであろう。すると、本阿弥は刀剣のブローカーでもあったわけである。豊臣時代以後における本阿弥家の権威は絶対であった。その特権を利用して、無銘刀に正宗の折紙を濫発したばかりか、その売買によって、うまい汁を吸ったことは、以上の諸事実から明らかに類推されるところである。 本阿弥家では、正宗の濫造によって旨い汁を吸うと、とうていその味が忘れなかった。少しでも正宗に類似点のある刀は、新古を問わず、片っ端から正宗と鑑定した。それについて、こんな笑話がある。── ある日のこと、本阿弥が登城してきたので、二代将軍秀忠が一振りの刀を鑑定させた。 「天晴れ、正宗の名刀と拝見仕ります」 「バカ申せ、それは新刀(豊臣時代以後の刀)なるぞ」 「総じて正宗の作には、五行の鉄を相生じおります。これにもそれがあります故、正宗と見るほかございません」 実はその刀は野田繁慶といって、当時旺んにトンテンカンやっていた、生存者の作だった。そこで早速かれが呼びだされた。 「そちの刀を、本阿弥が正宗と鑑定いたしたぞ、正宗を似せたか、それとも正宗の鍛法を相伝しおるか」 将軍がそう尋ねると、かれはにわかに顔面を硬直させ、ぎりぎりと歯がみしていった。 「さてさて情けなや、正宗風情と同列にみられるとは、繁慶、心外千万にございます」  これには、将軍も苦笑いするほかなかった。当時、できたてのホヤホヤ刀でも、正宗と鑑定するのだから、正宗に対する執着の深さにはあきれる。 これに似た話は、明治になってからもあった。同じく繁慶の刀を、大久保一翁が本阿弥長識に見せた。表裏ためつ透しつ見ていたが、やがて自信たっぷりに答えた。 「正宗でございましょう」 「血迷っちゃいけねえ、新刀の繁慶だ」 「あっ、しまった、でも、これは正宗を摸造したのですから、繁慶正宗と称するべきです」 と、苦しい弁解をしたという。これを長識にくれたら、銘をすり消して、正宗の折紙をつけたかも知れない。 つぎに江戸後期、天明(1781)ごろの話だが、ある大名家に、元禄元年(1688)二月付けの、本阿弥光由の折紙のついた正宗があった。虫干しのとき、本阿弥光久に見せたところ、 「長曾禰興正と拝見いたします」 興正といえば新刀の巨匠、長曾禰虎徹の養子である。それを鎌倉末期の正宗とは、とんだ時代違いである。 「これには元禄の古い折紙がついているぞ」 と、教えられてマゴついた、という話がある。これも興正と見るのが正解な鑑定であって、正宗とは例の釣上げ鑑定と見るべきである。 講談に姥捨山正宗というのがある。本阿弥光悦が月の名所として知られた姥捨山に行ったとき、たわむれに赤鰯の鈍刀に、正宗という鞘書をしてやった。それが評判になって、その赤鰯は姥捨山正宗とよばれ、大いに珍重されたという筋である。 本阿弥はいわしの値まで付けてやり という川柳はこの話を念頭において、折紙の濫発を風刺したものである。とにかく赤鰯でなくとも、サバぐらいの刀に正宗の折紙をつけたことは多かろう。 正宗の偽造に貢献したのは、本阿弥家ばかりではなかった。大名や刀工にもあった。徳川家康でさえ、宇多国宗の刀を正宗に直させて、最上義光に贈った、という話がある。家康と天下を争った石田三成は、正宗の偽造でも、家康の向こうを張った。というのは、当時の巨匠、堀川国広を佐和山城へ招いて、正宗や貞宗、はては郷と幽霊は見たことない、とさえいわれる郷義弘などを、旺んに偽作させた、という伝説がある。当時の大名を、おのが陣営に引きずり込むためのカギに、それらを使ったのである。 刀工としては、前記の堀川国広の弟、国安があげられる。かれは兄の代作までした上工だから、正宗の偽作も正真に見まがうほど、迫真力あるものを作った。それが露骨すぎたのか、兄の訴えるところとなり、領主鳥居家にお預けをくった。そして同家とともに奥州磐城に移り、淋しく一生を送った、という伝説がある。実兄から訴えられたことは潤I色であろうが、偽作の件は首肯してよさそうである。 幕末の文化(1804)ごろ以後の刀を、新々刀と呼んでいる。このころ、水心子正秀という名工が出現して、復古の鍛法ということを昌導したからである。復古とは古刀の鍛法を復活することだから、これで鍛えた刀は古刀そっくりである。正宗の偽造には誂え向きの方法である。創始者たる水心子も、これを活用して、正宗の偽作をしたといわれている。無銘のすり上げ風にこさえて世に出せば、堂々と罷り通ったに違いない。 水心子の孫弟子に、細田平次郎直光という刀工がいた。鍛冶平の通称で音にきこえた天下の偽物師であった。かれの『鍛冶平真偽押形』をひらくと、十九振りの正宗偽物が収録されている。押形をとらなかった偽物もあるはずだから、一生のうちには、かなりの鍛冶平正宗を製造したことになる。 要するに、正宗が桃山趣味にのって時代の流行児になると、正宗に在銘の少ないのを利用して、本阿弥、大名、刀工などが偽物正宗をさかんに世に送りだした。その結果、一、二万石の小名でも一振り、二振りの正宗はかならず秘蔵されていた。そのほか福神と仲のいい富豪たちも、争って正宗を求めた。その結果、川柳子から、「正宗で甚だもめる形見分け」、と皮肉られることにもなった。とにかく、これらを総計したら、莫大な数字にのぼる。その中に、果たして真の正宗は幾振りあるだろうか、雨夜の星のごとく甚だ心細い感じがする。

日本刀名工伝より