【刀は備前】
備前の国は、古くから備中、備後、美作の三カ国を併せて吉備国と呼ばれていた。その吉備国は「古今集に、
眞金吹く吉備の中山帯にせる
細谷川の音のさやけさ
と詠まれている通り「眞金吹く」という枕詞をもっている。眞金、つまり鉄を多く産したからこそ、こんな枕詞を付けられたのである。
地質学的にみて、中国山脈は砂鉄の宝庫である。その南麓にひろがった吉備国に、上世から多くの刀工が輩出したのは、地人論の立場からみて、むしろ当然のことであった。
吉備国のうち美作を除いた三カ国は、刀の産地として全国的に有名だった。
とくに備前国は断然、他を圧して吉備国はもとより、日本64州のうち、最高の刀剣王国であった。
統計的にみても、全国刀工総数の約2割を占めるという繁昌ぶりであった。したがってそのうちから幾多の名工を輩出せしめたので、名刀といえば”備前物”と答えるのが常識になってしまった。
この常識を実証するものとして、昔の軍記物には備前刀の名がよく出てくる。『平家物語』長門本をひらくと、
「薩摩の平六家房とて十七歳なりけるが、備前作の三尺五寸ありけるわりさやの太刀、わき・・・」
と、長大な備前刀を帯びた若武者の勇姿を描いている。
『源平盛衰記』にも備前国住人、難波六郎経俊が
、
「紺のしたおびかき、備前造の二尺七寸の太刀、随分秘蔵したりけるを脇に挟で・・・」
と述べ、備前刀の珍重されたことを示している。なお同書には、
「青地の綿の直垂に赤糸威鎧を著、備前作のかう平の大太刀帯たるは、武蔵国住人秩父末流、畠山庄司重能が一男、次郎重忠生年二十一と名乗・・・」
とある。この「かう平の大太刀」というのは、平四寸、長さ三尺九寸という超大型だったという。
そういう化物のような巨刀は、凡工の手には負えないが、さすがに備前である。それを立派に打ち上げる名人がいたのだから・・・・。
備前刀の名は日本64州はおろか、海の彼方の中国にまで轟きわたっていた。明の『武備志』をみると"利器"と題して日本刀の解説している。
それによれば、日本刀の第一は上庫刀で、つぎは備前刀であるという。
上庫刀というのは、後鳥羽上皇に召された御番鍛冶の作った刀のことである、ところが御番鍛冶12名のうち7名までが備前鍛冶であるから、上庫刀の名声も大半は備前鍛冶に負っているわけである。
すると、第二にあげた備前刀も、実質的には第一の上庫刀に、半分以上くい込んでいることになるから、やはり備前刀を、日本刀の王座に据えねばならない。
では、刀剣王国の最初の礎は、備前のどこに置かれたのであろうか―――。
【長船発祥説】
備前刀といえば長船、というより、刀といえば長船。それほど天下に著聞しているのが、長船鍛冶である。かの『太平記』にも、
「長船打の矢根を以て、鎧の前後二重にかけて、大の男の胸板を、背へぐさと射通したり」
と、長船鍛冶の作った矢の根の鋭利さを讃えている。
西条八十作詞の「日本刀の歌」という国民歌謡の一説にも、
「反りては備前長船の月にも似たる優姿」
と、その美術的要素をうたい上げている。
したがって常識的に考えても長船を備前鍛冶の発祥地にしたいが果たして学問的にはどうであろうか、その根拠をつぎにあげてみよう。
『黄微刀剣考』によれば、長船鍛冶は韓鍛冶、つまり朝鮮鍛冶の子孫であるという。
上古においては日本固有の倭鍛冶と、外来の韓鍛冶との二大系統があって、互に技を競い合っていたことが『古事記』や『日本書紀』にみえている。
技術的には韓鍛冶が進歩していたので、長船鍛冶の優秀な技術は、あるいはそれに発祥するものかも知れない。
さて、朝鮮から海を渡って瀬戸内海にはいって来た韓鍛冶たちは、定住地をあちこち捜したが、どうも水や土の鍛錬に適したところがなくて困った。
たまたま携行した大小の鉄槌を海中に投げ込んだところ、そこに忽然として大小の島が出現した。
それが今日の大槌島と小槌島であるという。瀬戸内海に浮かぶ小島で、大槌島は備前(玉野市)、小槌島は讃岐(坂出市)に属している。
韓鍛冶たちはそれからさらに東航して、おそらく児島湾口から吉井川を遡ったのであろう。長船の地にフイゴを据えて備前鍛冶の礎を築いたという。
しかし、この説は、いかにも神話調で、批判以前のもののようである。
長船発祥説の第二として、崇神天皇社の縁起があげられる。同社は古くから長船にあって、現在は靱負神社に合併されている。
その縁起によれば、人皇十代崇神天皇の6年、由介比郷の板屋、つまり今の長船に住んでいた刀工たちが鉾や剣を造ったという。
なお横山祐定系図によれば、横山氏の先祖は崇神天皇の6年2月と8月の2回にわたり、剣をうって献上した。
その功によって位祿を賜り、その後も代々宝剣を献上するならわしになった。居住地は備前国湯桂郷板屋、つまり今の長船の地であった。
降って仁徳天皇の御代に、湯桂郷に勧請して、鍛冶の祖神としたのが崇神天皇社であるという。
社寺の縁起や各家の系図において、とくに古い時代の記述が、後人のでっち上げである場合の多いことは天下の常識である。
上述の崇神天皇社縁起や祐定系図において、崇神天皇を担ぎ出したのは、天皇が天目一筒神の後裔に、草薙剣を模造させたという伝説のほか、吉備津彦命に命じて、吉備国を鎮定せしめた、という『日本書紀』の記述にヒントを得たものであろう。
しかし、『古事記』によれば、大吉備津彦命と若建吉備津彦命(異母弟)が吉備国に派遣させられたのは、人皇七代孝霊天皇の時という。
吉備津彦命は孝霊天皇の皇子であるから、崇神天皇にとっては祖父の弟ということになる。そんな老人を遠征軍の大将に任命したとは考えられない。
戦国でもこの無理な点が指摘され崇神天皇との関係には疑問がもたれていたが、戦後になると、孝霊天皇や崇神天皇に関する事蹟は、すべてフィクション視されている。
でも、吉備津彦命らの子孫が吉備国にながく留まり、吉備臣として繁栄したことは事実のようである吉備国の一の宮が、"吉備の中山"の麓にある吉備津神社、備前国の一の宮が一宮町にある吉備津彦神社、備後国の一の宮が新市町の吉備津神社になっており、いずれも吉備津彦命を主神にしている事実からも裏書きされる。
すると、吉備臣らに刀剣を供給した刀鍛冶がいたはずで、それが長船鍛冶の先祖というわけである。
つぎに、祐定系図に、2月と8月に剣をうって献上したというのは、後世の刀銘に2月と8月が多いのにヒントを得ての付会としか思えない。
さらに場所を長船といわず、板屋としたのは、天正18年(1590)の大洪水以前、吉井川に板屋ケ瀬という所があって、そこから砂鉄をとっていたという伝説があるので、それにヒントを得ての記述であろう。
長船付近をむかしは靱負郷といった。靱負とは、矢を容れる靱を負って、宮門をまもるガードマンのことである。
さらに靱負神社まであるところをみると、長船付近はそういうガードマンの居住地だったと推測される。
長船の北方約5キロのところに弓削、さらにその西方約1キロのところに矢削がある。弓削で弓を、矢削で矢を作って、長船の靱負たちに提供していたことになる。
すると、刀も靱負たちのために、もっと広く吉備臣たちのために製作されていたもので、崇神天皇との関係は、後世のフィクションのようでもある。
刀剣書では、元暦(1184)つまり後鳥羽天皇ごろより以前の備前刀を、"古備前物"と呼んでいる。
それの住所として、幕末の『古刀銘尽大全』には「福岡ニ住スルモ長船ニ住スルモ有」と述べている。
すると、備前鍛冶の発祥地も福岡か長船かだったと推測されるが、いかんせん、それより古い刀剣書には、古備前鍛冶の住所については一切触れていない。
それが幕末になって、突然判明したのはどうも不自然である。それが真実ならば、長船発祥説の有力な支柱になるが、根拠に疑念がある以上、どうも採用いたしかねる。
【吉岡発祥説】
郷土史では、この吉岡説を主張するものが多い。
古いところでは宝永6年(1709)の『和気絹』に、
「古備前、所在不詳。或説に鍛冶屋村也といへり」
と記されている。鍛冶屋というのは、今の赤城郡瀬戸町の字名で、山陽線万富駅の北方約1.5キロのところにある。
長船からは直線距離にして西北約6キロぐらいで、この付近はむかし吉岡庄と呼ばれていた。
吉岡といえば、いわゆる吉岡一文字派の居住地である。
刀剣書では、福岡一文字助宗の孫といわれる助吉を吉岡一文字の祖としているが、それよりずっと古い刀工、つまり古備前の刀工たちも、ここに居住したとするのが吉岡説である。
『東備郡村誌』では、この説を決定的なものと主張している。その根拠として、一文字則宗に河田庄吉岡と銘を切ったものがあるという。
そして河田庄という地名は残っていないが、吉岡庄の北の山陰に河田原という村があるから、これが河田庄の遺名であろう、と述べている。
河田原は現在、赤城郡熊山町のうちであるが、戦前は豊田村のうちであった。
河田庄の名は慶長10年(1605)の「備前国高物成帳」にも見えていて、豊田村の松木、長福寺、河田原、釣井などの旧集落を含んでいた。
熊山町のシンボルである熊山山上には、長船鍛冶の信仰の対象になった鍛冶神社の跡があって、長船鍛冶との関連の古さを示している。
では、この説の支柱となる河田庄吉岡という銘が果たして一文字則宗の刀にあっただろうか。吉野朝初期になると「備州河田住義則」と長銘に切ったものがある
が、則宗のような鎌倉初期の刀には、そんな長銘は見当たらない。あったとしても、せいぜい「備前国」くらいのものである。
『東備郡村誌』には出典をあげていないが、もし正真だったとすれば後代の則宗だったに違いない。
銘鑑によれば、蒙古襲来ごろの則宗は、はじめ長船、のち相州(神奈川県)に住したという。
そんな放浪癖のある則宗ならば、吉岡に駐槌したことも考えられる。なお室町中期の享徳(1452)ごろにも一人いたという。
その頃の刀工ならば、長銘に切ることもあり得る。そんな後代の則宗の長銘をみて、古い一文字則宗と感違いしたものであろう。
とにかく、一文字則宗の吉岡居住さえ根拠薄弱だから、それ以前の古備前鍛冶を吉岡居住と決めてしまうのは、ちょっと飛躍が過ぎるようだが『太田吉岡村誌』では、それを援護するため、次のような援兵を繰り出している。
まず吉岡には、天皇社や金師大明神の跡があるという。天皇社跡は、崇神天皇社が長船に移るまえの社跡と推定されるし、金師大明神はすでに『和気譜』に出ているから、奈良朝以前からあったことになるという。
次に、万冨駅の東南数百メートルのところに矢削、さらにその東方1キロ余のところに弓削という集落がある。
これらは上古に矢削部、弓削部に置かれた跡であるから、これらと並んで、万冨駅の西北約1キロの鍛冶屋部落に、鍛冶部が置かれたことも考えられるという。
なお、慶長9年(1604)の「多田原検地帳」をみると、鍛冶屋の南方、1キロ足らずのところに梶久という地名がある。
梶久はもと"かぢ給"と書き、鍛冶給、つまり鍛冶の給田(領主から給せられた田)だったと解せられるという。
さらに、万冨駅から真北に1キロほど行くと、奥池といって、上高地の明神池を思わせるような静かな池がある。ここから百メートルほど奥に行くと義光谷がある。
ここに土を採った跡があって、一文字義光の屋敷跡と伝えられている。今でも鉄滓が発見されるから、刀工に有縁の地であるに違いない義光谷は吉光谷とも書くという。
いずれにしても古備前までは遡らないが、ここに刀工のいたことの証拠にはなる。
以上『太田吉岡村誌』にあげられた理由のうちには、単なる憶測に過ぎないものもあるが、金師大明神が奈良朝以前からあったことは『和気譜』によって立証されているので、吉岡にはその頃からすでに、鉄製ないし鍛冶業の栄えていたことは信じざるを得ない。
これに対して、長船の崇神天皇社は祐定系図などでは、仁徳天皇の御代の創建というが、『備陽国志』では吉野期のころ、兼光の建立とされている。
祐定系図より『備陽国志』に史的価値のあることは申しまでもない
すると、吉岡のほうが長船より鍛冶の歴史は古いことになり、古備前の住地も吉岡に、より可能性があることになる。
【備前の黄金時代】
後鳥羽上皇の刀工奨励策によって招来された、いわゆる一文字刀工時代は、明の『武備志』にもあげられたとおり、日本刀の黄金時代であるが、その一文字刀工の大部分は備前の住人であった。
彼らの手によって焼き出された絢爛たる丁子乱れの刃文は、今を盛りの桜花にも似て、まさしく日本刀の華である。
『武備志』にいう上庫刀とは、後鳥羽上皇に召された、いわゆる"御番鍛冶"のことであるが、同書によれば、
「尽ク日本各島ノ名匠ヲ取リ、庫中ニ封鎖シ、歳月ヲ限ラズ、其工ノ巧ヲ竭ス。之ヲ上庫ト謂ウ」
とあるが、倉庫のなかに幽閉しておいて作らせたなどとは、とんでもない誤解である。
そのとき召し出された刀工に対する沙汰書と伝えられるものが古剣書にみえている。それは次のように行き届いたものである。
右鍛冶等、各結番ノ月ヲ守リ、之ニ参勤ス可シ。但シ乳母ノ各ノ課ス所ノ事、鍛冶上洛ノ浄衣
一具、若シクハ帷、時ニ依ル可シ。在京ノ食事、鍛冶炭等ノ事、下向ノ時、直衣小袴、其沙汰
ヲ致ス可キノ状、件ノ如シ(原漢文)
承元二年正月 日
このとき名誉の選に入った刀工は、2名ずつ1組になって、2ヶ月ずつ奉仕することになっていた。
正月、二月 備前則宗 備中貞次
三月、四月 備前信房 京都国安
五月、六月 備中恒次 京都国友
七月、八月 備前宗吉 備中次家
九月、十月 備前助宗 河内行国
十一月、十二月 備前助成 備前助延
閏年 京都久国
以上のほか、各月に2名ずつを当てた24人番鍛冶、あるいは後鳥羽上皇が隠岐の島で打たせられた隠岐の番鍛冶などがある。
これら二つは、室町時代以前の古剣書に見当たらないから、後世の偽作というほかない。ここに掲げた13工のうち、備前工は6名の多きに上がっている。
この一事からみても、当時いかに備前から名工が輩出していたかよくわかる。
備前鍛冶を京都に召して、太刀を造らせた天皇がもう一人ある。
後醍醐天皇である。後鳥羽上皇の遺志をついで、北条氏討伐をやった方であるから、刀剣製作もその先例に従ってなされた公算は大きい。
だが、番鍛冶というほど大ゲサなものではなくて、わずか2名だった。その選に入ったのは、長船の国友、国吉という兄弟鍛冶であった。
打ち揃って上洛すると後醍醐天皇より太刀を鍛造せよ、という勅命が下った。使命の重いのを痛感した兄弟は、
「どうか叡慮に叶うような名刀を作らしめ給え」
と、天に祈念をこらした。
ところが、ある夜、空に浮かんだ雲の形を模して、刃文を焼いた夢をみた。
翌朝になって、兄がその夢のことを話すと、
「私も同じ夢をみました。きっと、そうせよという天のお告げですよ」
弟は感動の色を顔いっぱいに湛えていった。
「よし、では夢のとおりにやってみよう」
なるほど、夢のとおりの土取りをして焼くと、素晴らしい名刀ができた。さっそく御所に持参して、霊夢の話も隠さず申し添えた。天皇もたいへん感激された様子で、
「雲をかたどったとな、さらばこれより雲生、雲次と銘するがよかろう」
と、有難いお言葉を賜った、という伝説がある(『古今鍛冶備考』)。
なるほど、雲生、雲次などと備前鍛冶らしくない名前の裏には、そんなエピソードが潜んでいそうに思える。
改名前の名前については、なお異説があって、雲生については守重または盛重、雲次については守景または重次ともいわれている。
『光山押形』に、
平安城雲生 貞治元年二月日
と銘のある脇差の押形を掲げている。
これは京都においての作品だから、前記の伝説の裏付けに利用できそうであるが、惜しいかな、偽物である。刀銘における二月は、冬至から夏至に至る半年間を意味するものであるが、貞治(1362)と改元になったのは九月二十三日だから、貞治元年に「二月日」はないはずだからである。
『校正古刀銘鑑』によれば、雲生には乾元二年(1303)の作品があるという。乾元二年といえば後醍醐天皇が数え年16歳で、元服された年である。
すると、まだ皇太子になってもいない少年からそれ以前にすでに作刀依頼があったり、工名授与があったことになるが、それはちょっと不自然である。なお、
雲生の父がすでに雲上と称した、という古説さえある。すると、後醍醐天皇賜名説は、単なる伝説として、聞きおく程度でよろしかろう。
ところで、雲生には、「備前国宇甘郷住人」または「備前国鵜飼庄住」と銘を切ったものがあるとおり、御津郡御津町の宇甘に住んでいた。
長船から直線距離にして25キロもある山の中である。
どうしてそんなところに鍛錬の場を求めたか――。
ここで想起するのは、彼らの父守重は、長船の隣村畠田の名工、守家の子とされているが、ほかの鍛冶にねたまれて、打ち殺されたという伝説がある。
これが真実とすれば、同業者たちの迫害を免れるため、こんな山中に疎開したことも、当然考えられるところである。
雲生らの屋敷跡は現在も御津町の文化財として残っている。津山線が箕地の山裾をぬって、福渡へ向かって走る。
その線路とは反対側の山腹に、鍛冶屋敷とよばれる一画がある。峠から2キロも下った所である。以前は石垣や浅い泉もあって、付近を掘ると金糞も出たそうである。
昔は岡山から津山に通じる幹線道路がこの地を走っていたので、こんな山の中でも、人馬の往来はかなりあったとみねばならない。
したがってここでも結構、刀の需要はあったのであろう。
後醍醐天皇が鵜飼庄雲生らを召されたのに対して、足利将軍尊氏は長船兼光を呼び出されている。
ここにも南北の対立が現れていて面白い。尊氏が正平5年(1350)11月備前にくだり、翌6年の正月を福岡の陣中で迎えたことは『太平記』などに見えている。
この滞在中に兼光は尊氏から太刀の注文を受けた。
将軍様から直々のご注文というので、兼光は大いに感激した。さっそく長船鍛冶の氏神である崇神天皇社の境内に鍜治場をこしらえ、丹誠こめて一刀を打ち上げた。
「太刀ができたら、斬れ味を試してみよ」
重ねてお沙汰があったので、鎧二領と兜とを試してみたところ、見事に一刀両断した。
それでその太刀を"甲割り"と名付けて秘蔵するとともに、兼光には褒美として、一丁(約109m)四方の屋敷を与えたという。
『備陽国志』には、そのほかにさらに六万貫の地も与えたとある。それが真実ならば尊氏からいかに厚遇されたか、推察がつくというもの。
兼光拝領の屋敷は周囲に濠をめぐらし、四隅に櫓を設けるなど、豪族の館と同じ構造になっていたという。
それは、兼光が、
かぢや千軒、うつ槌の音に、西の大名が駕籠止める
と、俗謡にも唄われたとおり「鍛冶屋千軒」の支配者として、豪族並みの社会的地位を有していたことを示すものである。
兼光の屋敷はその後、長船の鍛冶頭が代々継承したらしく、室町中期の文明(1469)年間には、右京亮勝光が居住していたが、後述のとおり戦火に焼かれたため、廃墟になってしまった。
しかし、その跡は現在でも残っており、"城の内"と呼ばれている。
ここを『東備郡村志』には、小笠原金光あるいは長船左衛門尉兼光の城址というも末詳、と述べているが、両者は結局、同一人である。
というのは、金光は兼光のアテ字であって「長船春太郎家系図」その他によれば、小笠原氏であったというからである。
長船鍛冶の家に伝わった系図は、いずれも江戸時代になって作成されたものであろうが、普通の刀剣書に見当たらない興味ある記述が盛られている。
例えば、兼光の父は小笠原長光といって、九条左大臣忠教の家人であったが、長船に下って定住し、畠十町八反歩の大地主になったという。
このことは長船家の菩提寺である慈眼院の「由来記」や、長船鍛冶の氏神である崇神天皇社の「事由書」にも見えているから、長船では広く流布した説ということになる。
公卿の家人の長光がどうして刀鍛冶になったか――。レジャー施設のない当時のことだから、暇をもて余したからであろう。
景光の鍜治場をのぞいているうち、鍛冶の仕事に大いに興味をそそられた。
初め小ガタナなど作っているうち、刀を作ってみたくなった。
「わしを弟子にして下さらんか」
ということになった。
景光も大地主の旦那だから、特に親切に教えてやった。すると、天分があったとみえ、めきめき上達した。
そこで景光は、父(法名順慶)の長光という刀銘を許した。それから長船左近将監長光と銘を切るようになったという。
この場合の「長船」は地名でなくて、長光の出身地が信州の長船村だったので、姓として用いたものという。
なお長船の地はも靭負村といっていたが、その後は、長光の出身地の名を採って、長船村と改めたともいう。なかなか興味ある伝説である。
栄光から斜陽へ
闘争に明け暮れた戦国時代は、刀剣の需要が供給を上回れば、直ちに戦闘力の低下を来たした。それで、武将たちは刀鍛冶の確保のおおわらわだった。
甲斐国(山梨県)は不幸にして、刀工は不毛の地であった。
天下の覇権を狙う武田信玄にとって、それは悩みの種だったので、使者をはるばる長船にやって、祐定を招いた。その恩義に感激したのであろう。
祐定は遠く甲州におもむき、山梨県差出の磯のあたりに5年間駐槌し、武田家のために鍛刀したと伝えられる。
さらに織田信長からも招かれている。天下の覇者として当時、威光を誇っていた安土城下にフイゴを据えた。熟練の腕にヨリをかけて、つぎつぎに業物を作り出すと、
「これは長船の祐定が作った業物じゃ。そのほうに取らせる」
いかにも満足げにそういって、戦功のあった家臣に与えていた。
祐定は莫大なご褒美を頂いた上、天下人の信長が宣伝してくれるので、わが世の春を謳歌する気分でいっぱいだった。
ところが、"盛者必衰"の道理を証明するかのように、数百年の長きにわたり、刀剣王国の名をほしいまにして来た長船が、一夜にして潰滅するという一大惨事に見舞われた。
それは戦国末期の天正18年(1590)8月15日の大洪水であった。
『備陽国志』には大永(1521)ごろとあるが、そのとき溺死したはずの勝光、宗光、清光、春光、忠光などの遺作がたくさん現在するので、大永洪水説は誤りである。
『東備郡村志』の説のように、天正説が正しい。それも長船に遺った口碑によれば天正18年8月15日だったという。
何故、そんな大洪水になったかというと、長船の北側を流れている吉井川が大増水した上に、長船の対岸で、すこし上流にある熊山の山崩れがあったため、長船の近くの天王原の堤が切れたためだったこの天災の相乗作用によって、前代未聞の悲劇をひき起こした。
長船も、隣の畠田(守家らの住地)もとうとうたる濁流に呑まれて、見る見るうちに視界から消え去った。
それもおそらく夜半に不意打ちされたのであろう。
幸運にも九死に一生をえたのは『備陽国志』や『東備郡村志』によれば、長船の祐定一人だったというが、『黄薇刀剣考』によれば長船2人、畠田1人だったという。
後説が正しいようである。というのは祐定のほか、春光にも大洪水以後の年紀を切った作品があるからである。
藤四郎祐定の一家は奇跡的に助かった。おそらくぽかぽか浮いて流れる屋根の上にはい上がっていたのであろう。そして濁流に転覆することもなく、4キロほど流されて蠣山という所に漂着したという。
なお『東備郡村志』によれば、わずか一人だけ西幸崎に漂着して助かったともいう。
西幸崎というのは吉井川が児島湾にそそぐ河口にあって、長船からは15キロほど下流にあたる。
そんな長距離を漂流したとは思えないから、おそらく蠣山に漂着して、それから西幸崎の親戚の家でも尋ねて行ったのであろう。
滄桑の変、という言葉がある。
そのときの洪水は桑田変じて滄海になったので、祐定らが帰宅してみると、長船は惨怛たる光景で声も出なかった。
地形も一変して、吉井川は数百メートル西方に河床を変えていた。今日でも、もとの河床は"古川筋"と呼ばれ、水田になっているが、一段低くなっている。
祐定の家はただいま横土手と呼んでいる辺にあったが、洪水によって跡方もなくなったので、今度はそこから二、三百メートル南方に移転した。
そこはもとの屋敷よりも高くなっているので、洪水の難も少ないとみたからである。
「長船を復興するのは、わが家以外にはないんだ」
藤四郎祐定は一族を一挙に失った悲嘆のなかから、使命感に燃えて雄々しく立ち上がった。
しかし長男の七兵衛さえまだ15歳、その弟の源左衛門や惣左衛門はまだ頑是ない少年であった。なお次男の五郎は洪水に呑まれて行方不明になっていた。
残りの三児を抱えての再興は、並大抵の苦労ではなかった。
しかし彼らが父の意思をついで、やがて新刀長船の担い手となって、長船の命脈を後世に伝えたのである。
慶長5年(1600)関ケ原の役の戦功によって、小早川秀秋が岡山51万石の太守に封じられると祐定はお抱え鍛冶として祿200石を給せられた。
2年後、小早川家が断絶すると、池田輝政の領地になった。輝政は愛刀家だったので、同じく藩工に採用された。
その池田家が寛永9年(1632)因州の鳥取に転封になった。数百年来、墳墓の地である長船を離れるに忍びなかったが、藩命とあらば致し方ない。
渋々ながら中国山脈を越えて、裏日本の鳥取城下へフイゴを移さねばならなかった。
ところが、鍛冶小屋もやっと出来上がったころに、
「そのほうは長船に立ち帰り、岡山藩に仕えるように――」
と予期せぬお沙汰があった。それには祐定が知らぬまに、次のような舞台裏の取引きが行われていた。
池田光仲のあとに入城して来たのは、池田新太郎光政であった。彼自身が名君だった上に、家臣に、大坂正宗と呼ばれた井上真改と肝胆相照らした熊沢番山がいた。
それで、天下に知られた刀鍛冶の祐定を鳥取藩に奪われては、武備充実の上からみて拙い、ということになった。
「祐定は昔から長船村に付いたものでござる。早々お返し願いたい」
光政から鳥取藩に対して、祐定返還を要求してきた。光政は池田の本家、光仲は分家だから、すべてにおいて本家には頭があがらない。
祐定の返還要求にしても、その理由はこじつけも甚だしい、とは思うものの、反抗できないので、おとなしく返還を承諾したものだった。
祐定は、住み慣れた墳墓の地だから、喜び勇んで長船に帰ってきたが、光政からは、わずか5人扶持しか頂けないことが判った。
そんな雀の涙ほどの微祿だけでは、どうにもならない。
その上、桃山時代以後になると、数百年にわたる長船の栄光も、日本の中枢になった大坂や江戸の刀工たちに押されて、斜陽の一途を辿っていた。祐定一家も刀だけでは食えなくなったので、思い切って鉄砲鍛冶や農具鍛冶に転向するものもいた。
河内守祐定の一子、七郎右衛門のごときは、
「阿波の徳島に面倒みてくれる人がありますので、移住をお許し願いたい」
と、役人に願い出たほどだった。それほどの決断もつかない連中は、食う為に"数打ち"つまり粗製乱造刀を盛んに作った。
橘南谿が幕末の天明2年(1782)長船を訪れたときの紀行文に、
「いずれの家も繁昌して賑やかなり」
と述べているが、それは数打ちをやっていたから、商売繁盛のように見えたのである。
せっせと打ち上げた刀は、質屋に持っていくと、いくらでも引き取ってくれた。
それは奈良から岡本という数打ち物の問屋がときどき来て、ごっそりと買っていくからだった。
いつも馬2,3頭で運んでいたというから、数百振りという数だったことになる。
奈良に持ち帰ると、作風の似た刀工の銘を勝手に切って安価に売っていた。世に"奈良物"と呼ばれるのが、それである。
こんにち長船の杖をひいてみると、かつての刀剣王国を記念する大きな石碑が建っている。
刀の切先の格好をした2m位の自然石に、「造剣之古跡」と大書してある。
愛刀家で、かつ岡山県出身の犬養木堂(のち首相)の揮毫したもので、大正14年の建立である。場所は横山元之進祐定の屋敷の前で
「わしでもう長船鍛冶は終わりだから、この辺に昔いたんだ、という印を建てておきたい」
という祐定の悲願によって建ったものである。
この記念碑の横に見事な蘇鉄があった。祐定が自慢にしていたもので、それと並んで建った碑を仰ぎながら、
「ああ、これでわしの長い間の夢が実現した」
と、眼を細めて、いつまでも見入っていた。斜陽にその影が次第に伸びて行くのも忘れて――。
日本刀名工伝より