地域別にみる鐔


出羽(秋田)
秋田は出羽国にあたり、佐竹家の領地で、この地が、奥州正阿弥各派中では一番正阿弥様式を残している。特に秋田正阿弥の重鎮である正阿弥伝兵衛が、秋田の地方文化に尽力した功績は大きく、その作品には創意と工夫のあとがみえる。多様な技量を発揮し、力作を多く残している。作風は地方色の濃い図柄で竹、蕗などを描いた物があり、特に「ぐり彫」式の手法が有名である。正阿弥伝内、伝七、重央をはじめ一門分流にも良工が多い。
庄内(山形)
庄内は現在の山形県鶴岡市、酒井家の城下町で、多くの金工、鐔工が活躍したところである。古い時代のものには、集験者の霊場、羽黒山僧侶の作と伝える数珠の肉彫地透の鐔がある。 江戸時代後期になって土屋安親が出て名声を高めた。その義父に、”珍久”がおり、珍久が奈良風の作行を庄内にもち込んだのである。その門下では、渡辺在哉と安藤宣時が知られている。在哉は安親と技術的な交流をはかり、独学によって一家をなした。「在哉」と二字銘に切り、鉄地の鐔を多く造っている。
鉄地に銀や素銅で唐草や動物を平象嵌した鐔を得意とした人に、鷲田光仲がおり、兄の光親も安親写しの鐔を造り、この一派はいずれも優工ぞろいであった。
藩の抱え工である桂野赤文も、写実味と野趣のあふれた面白い作品を残している。図柄は虎、いもりなどの動物が多く、「遊洛斎赤文」と五字に特異な書体で切り銘がしてある。
会津(福島
陸奥国の会津は松平家の城下町で正阿弥一派がここでも活躍した。
会津正阿弥何々の名をもって愛好されているものの他に「会津住正阿弥」と切った数物の粗悪品も見かけることがある。これは、西の長州と同じく、藩で鐔を産業品として奨励し、他藩に販売して外資を稼ぐ目的の為に粗製乱造したものである。会津正阿弥には正阿弥一光、一流斎正光、加藤英明、明周などの名工が出ている。
常陸(水戸)
現在の茨城県で、水戸は徳川御三家の城下町である。古くは甲冑師系の早乙女派が中心であった。早乙女派は明珍派の分流でもっとも著名なのが早乙女家貞で、後代に家則などの名を見る。 江戸末期から幕末にかけて巧手が多く出て、いわゆる「水戸彫り」の作域を形成した。赤城軒系と一柳友善系が抜んでている。赤城軒派は元孚が頭領で、同名を二、三代と名乗っている。
行年七十何歳と切った物が多く、作風は、浜野式の豪快な作品や、薄肉彫りの味のある物が多い。一柳友善系も一柳友善と切り、同名を初代より六代まで名乗り、作には水戸彫りの特技の一つである竜の肉彫鐔を残している。門人に一柳軒美風などの名を見る。玉川美久、打越弘寿、萩谷勝平も代表的一門で大いに活躍した。他にも杉山節愛、四代目生雲斎安親と数多くの作者があり、それぞれ特徴ある作品を残している。
武蔵(東京周辺)
武蔵の国は今の東京都、神奈川県、埼玉県の一部を含めた広範囲を指し、この地より、鉄製の地透し鐔の四大主流の一つを形成する赤坂鐔が生まれた。 赤坂鐔は古来、京の鐔商・雁金屋彦兵衛が江戸の開府にともない、寛永年間の初代忠正、二代忠正、三代正虎といわれる鐔工を連れて江戸の赤坂辺に移住し製作させたものが始まりと言われていた。しかし、これは初代忠正が、二代目忠正を連れ、新天地、江戸に来て、郊外の赤坂に居をかまえて鐔の製作を始めたと考えるべきで、雁金屋は家号と解すべきであろう。赤坂鐔の特筆すべきことは、尾張藩の強固と雅趣に、京透し鐔の繊細さと精巧さを混然融合させて、独自の透し鐔を工夫創案した力量である。それが、初代より八代目忠時に至るまで二百数十年に渡り隆盛を誇り、連綿として家系を伝えたゆえんであろう。
初代、二代、三代の作風は尾張透し風の感じが強く、鉄地で、丸型丸耳に、やや厚手のものが多い。図柄は笹竹、蘆雁、時雨亭、菊などの地透しである。四代目から「赤坂忠時」と銘し、四代忠時から八代忠時まで、伝統を守りながら時代の流行に合った作品を作り活躍してきた。作にはその頃より肥後鐔の影響を受けた為に、初代から三代よりは、器用で精巧な作になっている。図柄は、絵風の風景的の物が多い。初代忠時の門人である赤坂忠重も名工で、後世、赤坂鐔の名声を世に出した一人で、一門のために活躍した。門人も多く育成し、忠則、忠好らを世に出した。
伊藤鐔
この一派は、鐔師の職を持って幕府の御腰物奉行の支配下に入っていた為に、古い時代は献上鐔を作っていた。そのため無銘物が多いが、江戸中期以後は赤坂鐔一派と共に繁栄し、江戸鐔工を牛耳り、その為に、各藩の鐔匠が争って、その門に入り修業するに至った。長州、駿河、薩摩などの作行に多分にその影響がみられる。また、他藩にも出張して作っている。
初代正長から正垣―正方―正吉―正近―正種―正也―正乗―正広―正隆と継承され、その華麗で、精巧な作風は世人に歓迎された。また同名でも小田原住、佐倉住、唐津住と地方の住を切った作名もよく見受けられる。作風はほとんど丸形の赤銅と鉄の板鐔で、透し、肉彫り、象嵌、色絵を施し、草木、松樹の図を好んで彫刻している。
井戸派も真面目な、手堅い作風の鐔を作っていて、江府住辰寿は著名である。また、並寿、満喜などの名を見る事ができる。
他に越前赤尾一派より分派し、出府して作った「江府住赤尾作」がある。また「武州住國廣作」の小透しの気の利いた鐔などもある。
幕末になると、薄肉彫で上手な本荘義胤、森如件、龍の彫物で有名な関義則、信家写しの上手な塚田直鏡などの鐔工がいる。
明珍系
明珍家は本来は甲冑師であり、古くは鎌倉時代から下って明治時代まで続いている。鐔工としての明珍は室町時代初期から明治末期迄続いていた。明珍一派は、正阿弥一派が京から出て全国へ散って行った如く、全国に分布している。中でも明珍系鐔工としては江戸を第一とし、常陸国、越前国、土佐国などがその主なところである。 その作風はすべて鉄鐔である。なかでも兜の鉢形をした鐔の製作は甲冑師出身の明珍派の独壇場で他派にその例を見ない。硬軟二種の鉄を混ぜ合わせて鍛錬し、薬品を使用してその肌目を現した鉄は、やはり明珍系の得意とするところであった。しかも製造費用が安価の割に見ばえがするので幕末には需要が多かったという。幕末には鐔の下地のみを鍛え図柄は他の金工が彫るという合作の仕事も多い。越前明珍派の吉久一派は代々精密な肉彫透しを得意とし、他の明珍派とは一味異なった作風のものが多い。なかでも江戸期の六代目吉久は上手である。土佐明珍派は赤坂鐔工の門人なので赤坂鐔と同一の図柄が多い。全盛期は江戸の中期から幕末にかけてである。
越前(福井)
越前国の中心地福井は松平家の歴代の城下町であり、記内を始め、明珍、赤尾などの各派が鐔の製作に活躍した。記内は現存する作品の数から、当時の繁栄ぶりが推察できる。この一門は初代以下八代頃の幕末に至るまで、その家系が連綿として続き、越前鐔工団の主流となっていた。作風は板鐔に透し肉彫を施したものが多く、殆どが裏に「越前住記内作」と切銘している。中でも四代頃の「名人記内」と呼ばれる作品は入念で、精巧な鐔が多い。しかし反面、代が下ると名前だけの粗悪品も数多く見受けられる。また、初、二代頃の記内は、越前康継初二代の刀身に彫刻を施していることでもよく知られ、これを世に「越前彫」「記内彫」と称している。 明珍一派も代々「明珍吉久」と銘を切り、桃山頃の初代より明治の十代目に至るまで越前で鐔の製作に励んでいた。二代目吉久より専門の鐔工に転職し、良工としての誉れも高く、その基礎を築いた。後に越前松平家の抱え工となった。
赤尾派は、前記「江府住赤尾作」の本拠地であり、ここでは「越前住赤尾作」と切銘している。「甚左衛門」と通称を切った入念作も見受けられる。同名が数代あり、透し、肉彫の手法で図案的な作品も多く残している。
尾張(名古屋)
尾張鐔
尾張透し鐔は京透し鐔と並び称される透し鐔の双璧である。室町中期頃尾張や美濃で生産されたとされているが、江戸期に入ってその初期から中期頃迄はこれら二つの国に限らず、他国でも尾張透し類似の鐔を造ったと考えられる。尾張鐔と称されるものの中で、かなりの手入れをしても尾張鐔独特の深みある味が出てこないものの中には、他国で製造され、鉄味の多少劣ったものが含まれていると考えてもよいのではないだろうか。
透し鐔の究極は尾張鐔であると先人は述べているが、京透しの優美、繊細な線がかもし出す女性的な雰囲気に対し、尾張透しは線の太さ、頑丈さ、豊満さを多分に持っている。武士の刀にかけるのにふさわしい鐔といわれるゆえんである。作風は丸形で角耳が多いが、後には丸耳も出現してくる。初期のものは中凹で耳際に向って少しずつ厚味が増し、何とも言えぬ風情がある。切羽台と両櫃孔も端正で力がある。図柄は上下左右対称的なものが多いが、そうでないものもあり、いづれの場合も透しと耳の接続部分が他国の透しに比較して太くがっちりと力強いのが見所である。透し鐔の王者はやはり尾張鐔であろう。すべて無銘である。
金山鐔
やはり尾張国を中心に造られた鐔である。その起源は尾張鐔よりやや古く、室町中期の始め頃と考えられている。厚手のやや小形で耳には、いわゆる鉄骨なるものが現れ、その黒味がかった鉄味と強靭な質、さらには何の飾り気もない単純素朴な透しと共に、戦国時代の武士達の刀に実用されたものと考えられている。江戸期に入ってからは、鉄味がやや弱くなり力強さも次第に失われ、平凡になっていった。尾張鐔と同様にその鉄味、力強さを愛好してやまない人々が多い。
信家鐔
桃山期の三大名鐔工(信家、金家、明寿)の一つで、鉄鐔界の王者といえる信家の作品は、その豪壮さで、古くから人気が高く、愛好家の憧れである。
造り込みは、厚手の物、一般的の物、甲冑師的に平地を薄く、耳を打ち返した物などがあり、多様である。図柄はほとんどが地に簡単な亀甲、松葉、朝顔、波文字などの毛彫を施して、一見幼稚に見えるが、信家鐔の重要な見所は、その造形、地鉄の鍛え、地紋などの優れた点にある。銘振りにより、数人が確認できるが、現在では「放れ銘」(「信」と「家」の字がやや離れている)と「太字銘」(太鏨で竪詰りの感じの物)の二種類が定説となっている。信家の最大の特徴はいかなる拵えにも、ピッタリと合う事であろう。その為に人気が高く、各地方にも別人信家つまり加州信家、赤坂信家、会津信家、芸州信家などがいたようである。
法安
始め甲冑師であったが、後に鐔工に転じたといわれている。作風は信家鐔と類似している。少し厚手に作った「車透し」が有名であるが、初期には薄い板鐔風な物に焼手腐らしを施したものを造っている。図柄は山水、題目(南無妙法蓮華経)、文字等であるが、腐らかしのため、明確に判らない物が多い。しかし、そこがかえって風情を感じさせ、風格さえうかがえる。法安の「うわばみ鉄」(鉄質や錆付けに赤味のあるもの)と称して、鉄質の強度さが、特に賞美されている。初代法安は鐔の裏の切羽台の右手下部に、二字銘で、「法安」と切ってあるのが多い。
法安家系中で、鐔工としての実力者は兼信である。「法安兼信」、又は「法安(花押)兼信」と切り、うまいが、何人かいるようである。作には阿弥陀鑢をかけ、小透しの物がほとんどで、たまに、金象嵌を施したものも見る。
山吉兵
尾張国清洲の鐔工で具足師出身と言われている、正統の後代を含めると、五、六代までいたと思われる。初、二代の作風は竪丸形、木瓜形(六つ木瓜形)、(撫木瓜形)が多く、板鐔に小透しが得意である。共に武用を第一としたことが明確に判る作品が多い。初代は角耳小肉で槌目仕立であり、図柄は車透し、鎌、雁、トンボが多く、二代は打返しや、鋤残しになる物で、阿弥陀鑢がかかっており、巴、剣かたばみなどの透しが多い。信家、法安と共に愛好者が多い。
三代は、切羽台の右側に「尾州」と添え名し、桜の刻印を打ち込んだ物がある。通称「桜山吉」と呼んでいる。この桜山吉兵と戸田彦左衛門、福井次左衛門の三者は作風の類似性がみられる所から尾張三鐔工と呼んでいる。
貞廣
尾張では著名な鐔工で、同銘が数人いるようであるが、定説では初代と二代といわれている。しかし、共に二字銘のため、いずれが初代か、二代かが明確に分類できない。今後の研究が待たれる鐔工である。作風は鉄地、板鐔に多少の透しのあるもの、鋤出彫のもの、象嵌のものなどがある。一般的に小鐔が多く、形は長丸形、菊形、八角形などが多い。
柳生鐔
元禄頃、尾張徳川家の兵法指南役であった柳生連也斎巌包が、狩野探幽に野牛流兵法の極意を寓意した下絵を描かせ、それによって作ったと言われている。鐔は、尾張透し鐔の一分派と分けられる。その作風は独特の構図と造り込みで、地鉄も一工夫してあり、いくぶん赤味を帯びた、ざんぐりした肌で、少し小形で重ねが厚めで、丸形が多い。また木瓜形もあり、耳に柾目の鉄骨が表われ、武用第一の感覚がにじみ出ている。無銘で、水月、波車、一本竹、三星三角等が著名で、笠、車透し、十文字、井桁、采配など、いろいろ変わった図も見受けられる。全体的には柳生流の極意を寓意したものだとされている。くせの強い作風だが、ある種の迫力があるので、一部では珍重されている。
則亮
尾張鐔で幕末に忘れてならない人で、初、二代といるが、共に名工である。作風は、信家、金家、山吉、柳生、埋忠の写物を上手に作り、透し、肉彫、象嵌などすべて行っている。銘は「尾府住則亮」と切っていて、門人も数多くいるようである。
山城(京都)
金家鐔
金家鐔は鐔工として第一人者の作である。金家は山城国伏見に居住し、系統としては、平安城象嵌から出たものと言われている。それ以前の鐔は意匠が図案的、あるいは文様的であったのに対し、金家が初めて写生的な絵風(下絵は雪舟が書いたと言う伝説がある。勿論伝説で、金家の絵風は、北宋画に図様を模したというに過ぎない)を創始し、これを高彫にし、その上に変り金を用いて、象嵌で配色する事を工夫した。桃山文化の香りを鐔の世界に取り入れて、範を後世に残した名匠である。金家は同名が数代つづき、定説では「大初代」「名人初代」「二代」が著名である。作風は鉄地に超薄手の板鐔に、高彫、鋤出彫を施工し、据紋や象嵌の手法を加えている。図柄は代表的な物に達磨、毘沙門天などがあり、一般的には、唐人、山水などの図柄が多い。代下りの作品でも、雰囲気があり、捨て難い味がする。
傍系に「山城国藤原金定」と銘する人がいるが、あかぬけしない作品が多く、上手とはいえない。
埋忠鐔
埋忠家は元来、三条宗近の子孫と称した名門である。この一派の主業は刀工ではなく金工で、京都西陣に住した。その代表工が埋忠明寿である。明寿は、前述の信家、金家と並んで桃山時代の三代名鐔工の一人で、明寿の技量は高く、桃山時代の気風の横溢した作品を残しており、当時の工芸界を代表する名人の一人である。
明寿の作風には真鍮、素銅、赤銅などの板鐔に平象嵌した物が多く、耳を内返しにし、捻ってある。図柄は葡萄、枇杷、九年母などである。鉄地の物は小透しをし、雷文、さや形、唐草の図を金布目で象嵌し、古正阿弥風の作鐔がある。その他、種々の作風があり、最高のセンスの持主であった。この明寿についで、明真、重義、七左、宗義、重成などが有名である。
京正阿弥鐔
京正阿弥鐔は古正阿弥派の江戸時代の作品をいい、そのほとんどが無銘で、透し鐔に肉彫を混じえ、耳や全体に金布目象嵌を施してある。京都を中心に江戸末期に至るまで繁栄した。しかし中に在銘のものもあり、その代表的工人が正阿弥政徳で、作風は金銀を緻密に絵風の中に象嵌した物が多い。その他、「天下中興開山」と添え名した正阿弥次郎八、金十郎、寛悦などが有名である。
京透し鐔
京透し鐔は山城国で京都を中心に製作された地透し鐔のことで、透し鐔四大流派(京、尾張、赤坂、肥後)の一派である。作風は鍛錬のよい地鉄で、表面は磨き地を平面的に仕立て、透しの線が優しく、繊細、上品で、京風の優雅さを感じさせる。切羽台、櫃穴は、やや縦長の形となり、薄手である。図柄は八ツ橋、孔雀、鶴丸、桐紋、桜、梅花、巴、雁、その他いろいろとある。江戸末期に近づくと、質の低下した物が大量に出回り、あまり賞賛出来ない。京透し鐔に存銘のものはない。
後藤本家
後藤本家は、装剣小道具に関して最も著名な一門である。始祖の祐乗が足利時代後期に出現し、徳川時代末期の典乗に至るまでほぼ400年の年月を17代の永きにわたり継承し、本家とその分流は、わが国彫金界に君臨したのみでなく、政治、文芸など多方面にわたって活躍した。家系は祐乗―宗乗―乗真―光乗―徳乗―栄乗―顕乗―即乗―程乗―廉乗―寿乗―延乗―桂乗―真乗―方乗―典乗と続く。後藤家は鐔の作品は少なく、武家金具の三所物(小柄、笄、目貫)の製作が主であり、地がねは赤銅を用いることを建前とし、金、銀がわずかにあり、鉄はほとんど使われていない。これらの作品を称して「家彫」という。
これに対し、町人向けの金具を製作した人々を「町彫」という。幕末に到り、商人が経済的に力を得て来たので、家彫は次第に衰退し町彫が隆盛になってきた。
一方、幕末近く、後藤家別派の後藤一乗という名工(東龍斎清寿、加納夏雄と共に三大名金工と言われている)が出現し、本家の伝統を破り、自由な新天地を開拓し非凡な技量を発揮して、精巧豊麗な作品を多く残している。作風は、三所物、魚子地に高彫色絵あるいは金紋、平象嵌に片切彫を施したものなどいろいろとあって、一様ではない。特筆すべき点は鉄地は元来後藤家においては禁制の地がねであったが、一乗はそれを使用したということである。本家に気を配り、鉄鐔には「伯應」の号を用いる事が多かった。一乗には多数の門人がおり、細工所は繁昌した。高名な弟子に、船田一琴、橋本一至、今井永武、中川一匠、和田一真、荒木東明などがおりほとんどの人が師の一字をもらっている。孫弟子の佐藤義照もなかなか上手である。
その他の京都金工には、一宮長常一派、鉄元堂正楽一派、大月光興一派など数多くの名工がいる。
丹後(兵庫)
丹後には定正がおり、田辺、宮津の辺りに居住し、一門の子弟を数多く養成して、一派を形成した。初、二代とも同名で共に「丹州住定正」と切る。作風は鉄地丸形、角耳の板鐔に味のある大透しの実用的な鐔を残している。京の埋忠一派の出身と考えられているが、今後の研究課題の一つとされている。
紀伊(和歌山)
紀州徳川家が御三家の一つとして和歌山にあった。従って多くの金工、鐔工がいた。古くは前述の法安が有名で、その後、その弟子とも、尾張鐔に有縁であるとも考えられている貞命がいる。「紀州住貞命」と銘し、数代あると言われている。図柄は大文様なものが多く、奇抜で面白い味のあるものが多い割には、評価が低いがもっと評価したい一人である。
他に「淡水子算経」と銘する鉄地に杢目肌鍛えの鐔の作者もいる。
因州、備前、出雲(中国地方)
因州駿河作と銘する鐔工がおり、初、二代は春田と称し、三代以後は早田氏と改称し、主家池田氏が駿河国から三河国を経て備前国に転じ、さらに因幡国へと移封されたのに従った。前者を備前駿河と呼び、後者を因州駿河と称する。駿河の名称の起りは初代卓次が駿河国府中(静岡)に住していたことによる。
備前駿河鐔は主として、二代家次と三代宗家の手になり、因州駿河鐔は四代家久、以下卓家に至る。
出雲の国にも甲冑師の流れをくむ春田家という一派がおり、春田毎幹は傑出している。
長門(山口)
長門国は、毛利家の領地で、関が原の合戦後、城下町を萩に移し、以後明治まで政治、文化、産業の中心地として繁栄した。江戸初期以前のある種の鐔について、明治、大正期の一部の愛好家により「古萩透し」という分類が行われたが、これは恐らく焼物の関係から来た言葉であって、本来は京透し鐔の時代の上る物の事ではないだろうか。
長州鐔は全国でも、鐔工の最も多い国である。銘鑑、銘鑑洩れの鐔から蒐集した作者名は、実に二百余人の多数にのぼる。これは、藩の奨励によって、その作品を他国に輸出し財源をかせいだ為でもある。その結果、今日全国至る所で長州鐔を見かける。東の会津に対して西の長州と言われている。しかし、会津に比べると、工人も作品も長州の方が遥かに格は上である。作風は各派とも若干の相違はあっても、前期のものは板鐔と透し鐔で、形は丸形で大きな物が多く、共に肉彫になり、耳は角耳小肉で象嵌をしたものが多い。後期のものは江戸の伊藤鐔の影響を受けて、細密なものが多く、丸形、長丸形で小さくなり、耳は角耳が多く、象嵌は少なくなる。
各派系列の有名な作者は
中井家 中井善助友恒は中井家の二代目で傑出しており、長州鐔工人中第一人者である。
河冶家 河冶権之允友周、同別家三代友久が上手である「長州住河冶作」と切った鐔があるが、長州風の作行ではあるが、駄作で、入念作は見ない。
岡本家 岡本五代知賢、六代豊章が有名である。五代の門人小野光高、別家初代友次なども上手である。
岡本(埋忠)家 岡田家は初代岡田善左衛門宣政が上手である。他には、三代政詮、五代政富も巧者である。
金子家 金子家は金子十郎兵衛幸仲と忠兵衛幸冶が上手である。
中原家 中原一派では二代幸登、幸久、幸利などが有名である。幸登は毛利藩の抱え工となり、その作品は江戸でも評判が高かった。
その他、井上家では清高が上手で、通高、正高、などの名前を見る。八道家では初代の友清、三代の友久が共に上手である。その他別家の中にも上工がいて、その作は優美、精巧である。長州鐔のよしあしを見わけるには、俗名(〇〇新兵衛、十郎兵衛)入か、年記(文化〇年、文政〇年)入の物がよいとされている。
伊予,阿波、土佐(四 国)
伊予国は、松山が中心地で藩主は加藤家を中心に松平、久松家がある。室町時代から江戸初期にかけ、全国的に勢力を拡げて繁栄した正阿弥一派が来ており、京正阿弥系に次いで、伊予正阿弥は比較的時代が古い一派と見られている。地理的に京に近い関係の偽と考えられる。作風は京の優美に対して、伊予は武骨の感じがある。
銅山があった関係からか、古い時代の鐔に、山銅、素銅を用いて小透しをした太刀金具師に近い作柄を見ることがある。また、鉄地に小透し、象嵌、色絵の手法のものを多く見る。伊予正阿弥の代表的な工人として、”盛”の字を冠した。「盛国」「盛祥」「盛富」「盛積」 などや、”森”を冠した、「森勝」「森次」があり、そのほかに、”家””吉”を冠したグループがある。盛国は構図、技法が勝れており、全国正阿弥派中の名工の一人と言える。
阿弥国は蜂須賀家の城下町で、徳島が中心地である。ここもやはり正阿弥系の鐔工が活躍して阿弥正阿弥と称する全面に金の布目象嵌を施した精巧華麗なものが多く献上品のためか作者名を切った物は殆どない。
土佐国は山内家の高知が中心地で、明珍系の一派が来ており、鐔の作品を、数多く見る事が出来る。作風は、始め明珍宗栄が赤坂忠時に学んだ事から赤坂鐔に類似した作品が多かったが、その後肥後鐔の影響を受けた作品へと変化していった。この一門は宗利、宗長、宗義など十人ほどのグループである。中でも明珍宗義は名工である。
肥前,肥後、薩摩(九 州)
肥前国の中心は佐賀鍋島家で、若芝は肥前佐賀の人。もと竜造寺家の武士であった。画を帰化僧に学び、これを下絵として鐔を作ったと伝えられている。作風は、鉄の厚手の板鐔に薄肉彫、腐らかしの手法を用い、布目象嵌を施した物が多い。図柄は唐山水、竜の図、竹の図などを得意としている。
矢上光廣は肥前国矢上に住し、初代、二代、三代とあり、図柄は竜や桜花などを精密に肉彫にしている。特に猿は有名で、「矢上の千疋猿」と、世の賞賛を博した。
平戸にI居住した国重は「平戸國重造」と銘し、南蛮風の異色のI鐔工である。作風は、真鍮地や赤銅地に雲竜をなどを肉彫し耳にはローマ字を打った作品を残している。
一般に南蛮と言うと、ポルトガル、スペインのことを言うが、鐔界では支那からの輸入品と、我が国におけるその模造品とを指して「南蛮鐔」といっている。その近代的な感覚は、当時全国的に大いに流行し、各地で作られるようになった。
肥後国・熊本は、戦国時代の名将、加藤清正の領地であったが、改易後、細川忠興(三斎)公が藩主となり、以来、明治まで続いた名藩である。地方都市でありながら茶事、和歌などの風流をよくし、都会的センスをもった格調高い文化水準を築き上げた。鐔の製作にも力を注ぎ、「肥後鐔」と呼ばれる名品を残し、幾多の名工を生んだのは、藩主細川候が肥後金工達を、抱え工として保護したからである。その技術は、肥後象嵌として今日まで伝えられている。
林派
林は春日派(春日村に住んでいた。)とも呼ばれ、初代林又七は古来の透かし鐔の伝統に加え、金象嵌を巧みに施し、新しい感覚の名作を多く残している。又七は元来鉄砲の製作工であったが、細川家の抱え工となってからは、鐔の製作に力を注いだ。作品の多くは鉄地透かし鐔で、錆色が独特の青味のある強い紫錆で丸型や変り形が多く、図柄は桐、鶴丸、桜、遠見松などがある。肥後金工を代表する名工で、著名である。
二代林重光の作風、図柄は初代を受け継ぎ、水準以上の力作を残してはいるが、初代には及ばないところがある。三代林藤八は祖父、父に次ぐ存在で、以下七代まで続いているが、四代以降は作柄が低下した事は否めず、細川家ではこの技術を守るため、神吉家に林家の秘法を相伝させている。この神吉家は初代を神吉寿平といい二代神吉深信、三代神吉楽寿と続いていえる。この楽寿が近代名工として明治まで生き、春日派の伝統を守り続け、肥後金工の掉尾を飾る人となった。
平田派
平田彦三の祖先は丹後国細川家の武士であったが、後に主家に従って熊本に来て、細川三斎公の命で金工を始めた。初代の作風は、素銅、山銅の変わりがねを用い、形は、丸形、木爪形、板鐔で左右を大透しにして、阿弥陀鑢をかけたものや、唐草文を焼手腐らしして漆で仕上ており、滋味深く、高尚で、風格がある。
また、小田原覆輪と呼ばれる精巧な工作がある。肥後であるのに小田原覆輪と称されるのは、その覆輪がぐらぐらゆれることがあるので、小田原堤燈のブラブラから連想して名付けられたと言われている。七宝を生業として徳川幕府に任えた平田家とは全く別の家系である。
西垣派
初代を西垣勘四郎と称し、丹波国の神宮の子といわれ、後に初代平田彦三の門人として修業をしたと伝えられている。以下二代、三代に渡り、同名で鐔の製作に当たっている。初代の作風は、鉄地に少し肉彫をした透し鐔が得意で、型は真丸型や、勘四郎独自のあふり形(下張り形)に、桐、松、菊などを又七よりやわらかい感じの錆色で製作している。二代は真鍮地を使って波の図の肉彫の鐔を多く作り、初代平田彦三の作品に類似しており、味わい深い物を残している。二代の弟に西垣勘平がいて、比較的多くの作品を残している。
志水派
初代を志水甚五と称し、平田彦三の甥にあたる。以下八代まで同名が続き、三代目より甚五と口が付いて字が替り、代々八代に住んでいた。鐔の作は鉄地が多く、木瓜形、堅長の丸形、あふり形などがあり、竜、牛、蟹、鯉などの図を真鍮据紋高彫象嵌にして、大胆な雅趣のある作品を作っている。三代甚吾、五代甚五茂永が上手である。
遠山派
武用第一の作が多く、他の肥後系のものとはかなり異なった感じであり。他に三角派、諏訪派、谷派などがある。 薩摩国は島津家の領地で、小田派と知識派がある。
小田派
小田派は直香が良工で、直教、直升などがいるい。鉄地に内容彫透しの作で、鉈豆、竹虎の図を好んで彫っている。
知識派
知識派には兼矩、兼武、兼置などがいるが、兼置が一門中の巧手で、赤銅を使用して金工風の作品がある。薩摩の鐔には「鐔止め」と称して、小さな孔が二個開けてある作が多く見うけられる。これは刀身がすべり出さないように糸を通すためである。総じて薩摩の鐔工に関しては、隣国の肥後の鐔工に較べてまだ研究不十分のところが多い。

日本のデザイン 鐔の美 より


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